ベトナム戦争の特殊部隊、特殊作戦

特殊部隊グループ(Special Forses Group)

 米軍は第2次世界大戦時、イギリス軍コマンドー部隊を真似てレインジャー部隊を編成し英コマンドー部隊とともに ノルウェー、ディエップ(フランス北西部のイギリス海峡に面した海岸)、ノルマンディーなどで実戦に参加させている。
 また同大戦中の1942年7月には、モンタナ州において米兵とカナダ兵の志願者からなる第1特殊任務部隊が編成され、 ドイツ占領下のノルウェーでの作戦を想定して訓練を行った。しかし、あまりにも非現実的な作戦計画のために任務が変更され、 この部隊は通常作戦部隊としてイタリア戦線に投入されている。
 またCIAの前身であるOSSのよる による不正規戦部隊がヨーロッパ各地で活躍し、アジアではインド北部とビルマにOSSの分遣隊が派遣されている。 第2次世界大戦後、資本主義と共産主義の東西対立俗に言う冷戦状態になり フランス領インドシナ(現ヴェトナム)のインドシナ戦争(1946〜1954)、イギリス領マラヤ(現マレーシア)のマラヤ動乱 (1948〜1959)、そして朝鮮半島では朝鮮戦争(1950〜1953)が勃発した。ソヴィエトと中国に支援された民族解放という名前の、新しい形の代理戦争である。
 朝鮮半島ではソ連と中国に支援された北朝鮮軍が南侵を開始した。米軍は急遽、増援部隊を派遣して対抗したが、 正面戦闘で負け始めた北朝鮮軍は通常戦からゲリラ戦に戦術を変更して米軍を大いに悩ませたゲリラ戦は通常戦闘とは異なり、陸戦法規を無視した」民間人をも巻き込む戦術であり、正規戦用に組織され訓練された米軍は大きなショックを受けた。米軍はレインジャー部隊を復活させ戦線投入したが、北朝鮮軍の不正規戦には対応できなかった。
 同時期、非公式ながら特殊作戦部隊が実戦投入されたが、失敗している。これは1952年6月20日、フォート・ブラッグの 心理戦センターに創設された臨時編成の第10特殊部隊(10th SFG)である。この朝鮮戦争を境に、 アメリカの反共意識は頂点に達した。  10thSFG隊員は、第二次大戦中に第1特殊戦部隊やOSS、そして レインジャー部隊で特殊作戦の経験を持つ将校と下士官で編成された。その任務はアメリカが支援する外国の軍隊や 不正規戦部隊の育成と訓練である。  第二次大戦中よりOSSは東南アジアと深い関わりを持ち、インドシナ戦争当時から アメリカはヴェトナムに関与していた。やがてフランス軍撤退後に、アメリカは公式に経済・軍事援助を開始する。
 1953年、10thSFGは東西冷戦下の西ドイツに派遣されたが、米軍はフォート・ブラッグの残りの部隊を拡大して2番目の第77特殊部隊グループ(77th SFG)を編成する。この77thSFGの分遣隊が、1954年より軍事顧問として タイと南ヴェトナムに派遣された。  
1956年、フォート・ブラッグの心理戦センターは特殊戦争センターと改称された。
 やがて1965年からはJ・F・ケネディ特殊戦訓練センターと呼ばれることとなる。


民間不正規防衛団(Civilian Irregular Defence Group)

 1957年、フォート・ブラッグの77thSFGより抽出された分遣隊と、埼玉県朝霞のキャンプ・ドレーク(当時)に駐留していた 分遣隊を中核として、3番目の第1特殊部隊グループ(1stSFG)が編成された。
 この部隊は沖縄を本部として 台湾、タイ、ラオス、ヴェトナムへ派遣された。同時期、南ヴェトナムのニャチャン(ナトラング)では コマンドー訓練センターが開設され、南ヴェトナム軍の訓練を開始した。
 1960年には77thSFGは 第7特殊部隊空挺グループと改称され、南ヴェトナムへ派遣された。1961年9月、 4番目の5thSFGがフォート・ブラッグで新たに編成された。 この時、当時の米大統領J・F・ケネディの後押しにより 特殊部隊が正式部隊として認可され、特殊部隊専用の帽子として隊員たちはグリンベレーの着用を認められた。 この正式採用されたベレー帽はエリートのシンボルとなり、これ以降特殊部隊は「グリンベレー」と呼ばれるようになった。
 5thSFGはヴェトコン対策を支援する軍事顧問団として南ヴェトナムに派遣されたが、 この時期から陸・海・空軍および海兵隊で、不正規戦部隊の編成が開始される。 ヴェトナム戦争を通じてグリンベレーが 一貫して行った任務は、ヴェトナミゼーション、すなわち戦争のヴェトナム化であった。
これはヴェトナム戦争をできるだけ現地人の手に委ねようとするもので、1961年にはCIAの支援で CIDG(民間不正規戦グループ)計画が開始された。この計画はヴェトナム中部山岳地帯の モンタニヤード(山岳少数民族)を援助し、反共作戦部隊として使おうというもので、1961年11月にブオンエナオで始められた。  グリンベレー達は現地人と同様の環境で生活し、現地の村民の心をつかむために医療看護などにも従事した。ともすればその戦闘能力ばかりが強調されがちなグリンベレーであるが、彼らのこうした地道な努力によってCIDG作戦は成功した。
 1963年末には米軍特殊部隊に忠誠を誓う18000人のCIDG攻撃隊員120個中隊が編成され、 米軍特殊部隊Aチームの指揮下で、国境周辺のパトロールや監視を行った。ピーク時には80の前線基地で、40000人のCIDG攻撃隊員が解放戦線や北ヴェトナム軍と戦ったという。  
当初、米軍はCIDG攻撃部隊を南ヴェトナム政府軍の指揮下に置く計画であったが、山岳少数民族は常にヴェトナム人の差別に逢い 両者の間ではトラブルが絶えず、 CIDGは最後までヴェトナム人の指揮下には入らなかった。1962年2月、 MACV(南ヴェトナム軍事支援米軍司令部)が創設され、米軍による南ヴェトナム軍の訓練が本格的に開始された。
 9月には、ヴェトナム各地で活動する第1、第5、第7特殊部隊グループを統括するため、ヴェトナム派遣アメリカ特殊部隊司令部がニャチャン(ナトラング)に設立された。1963年2月、米軍時顧問団は顧問軍と名称変更され、 1964年には南ヴェトナム軍特殊部隊(LLDB)の訓練も開始された。それまで各米陸軍特殊部隊の多数のAチームが半年交代で一時派遣されていたが、やがて戦闘の拡大で部隊ごとの投入となる


機動攻撃部隊(MikeForse)

 1964年10月、CIDG攻撃隊員により「マイク・フォース」が編成された。これはヘリコプターを使ったヘリボーン作戦など、 高い機動力を持った隊員からなる2000〜3000名の連隊規模の5個部隊であり、偵察部隊から砲兵まで備え 河川パトロール用の船艇を持った部隊もあった。
 彼らは全般的に南ヴェトナム軍よりも士気が高く、前記したプロジェクト・デルタの偵察チームとリンクして、不正規戦の主力として戦った。
1968年7月のマイクフォースの編成は以下のとおり。
第1モービル・ストライク・フォース・コマンド
隊員463名で、本部と1個偵察中隊および2個歩兵大隊で構成された。 第1軍団所属のB−16−1チームの指揮下で
駐屯地はダナン

第2モービル・ストライク・フォース・コマンド
隊員3119名で、本部と1個偵察中隊および5個歩兵大隊で
構成された。第2軍団所属のB−20チームの指揮下で駐屯地はダナン

第3モービル・ストライク・フォース・コマンド
隊員 2015名で、本部と1個偵察中隊および3個歩兵大隊で構成された。第3軍団所属のB−36チームの指揮下で
駐屯地は ロンハイ

第4モービル・ストライク・フォース・コマンド
隊員2199名で、本部と1個偵察中隊、1個エアボート中隊および
3個歩兵大隊で構成された。第4軍団所属のB−40チームの指揮下で駐屯地はカントー

第5モービル・ストライク・フォース・コマンド
隊員2500名で、本部と1個偵察中隊および4個歩兵大隊で構成された。
第5特殊部隊グループ(5thSFG)の直接指揮下で駐屯地はニャチャン(ナトラング)

この米陸軍特殊部隊と CIDG部隊に北ヴェトナム側は危機感を募らせ、戦闘はより激化してゆく。
1965年、米軍の本格的なヴェトナム介入が始まり、公式にはこの年からヴェトナム戦争が始まったとされる。


デルタ計画( Project "DELTA")

 1964年より『プロジェクト・デルタ』が開始された。この計画はCIDG攻撃隊員と南ヴェトナム軍特殊部隊(LLDB) に長距離偵察訓練を行う為であったが、実際に作戦投入されたのはCIDG攻撃隊員の志願者と米陸軍特殊部隊の 混成チームだった。
彼らは『ロードランナー』と呼ばれた。 初期の編成は12個偵察チームで後期には16個偵察チームへと拡大される。
基本的に1個偵察チームは 2名の米軍特殊部隊員と4名のCIDGで構成されることになっていたが、実際は4名の米軍特殊部隊員と6名のCIDG で構成されていた。
 この6名のCIDG隊員のうち、4名は北ヴェトナム軍兵士の格好をしていた。この長距離偵察パトロールはかなりの成果 を上げより攻撃的な戦闘偵察パトロール部隊へと発展し1967年よりプロジェクト・シグマ、オメガ、ガンマ の各部隊が編成された。
1970年には1200名のCIDG隊員を指揮下に置き、越境作戦を実施した。
 この特殊LRRP とは敵戦線後方の深部偵察を意味し、北ヴェトナムのみならずラオス、カンボジアへも侵入した。


長距離偵察パトロール(Long Range Reconnaisance Patol)(LRRP,LRP)

 長距離偵察を目的とした即席の特殊部隊。実戦経験豊富な戦闘部隊、特殊部隊から優秀な兵士を抽出した。LRRPはグリーンベレーの約半分の小隊規模(4〜6名)で行動し独自の規範による行動が許された。
 一般的な編成としては2〜4名のアメリカ人兵士にARVN、モンタニヤードのスカウト(斥候員1〜2名)で構成された。 LRRPはヘリコプターで本隊より40〜60km離れたエリアに空輸され策敵、偵察に務めた。また非武装地帯(DMZ)を越え タイ、ラオス、カンボジアにも侵入した。長距離偵察という特徴から装備も一般部隊とは異なりヘルメットや防弾ベストは着用せずブッシュハットやバンダナを着用しM16ライフルを携行するといった独特のスタイルを確立した。またLRRPの一部は消音器付きのピストルなども携行した。初期には抽出されたメンバーが交代でLRRP任務に就いたが その任務の危険性から各部隊では次第に隊員を固定化するようになった。ベトナム戦争中のLRRPの死傷率は全特殊部隊でも トップであった。
  戦闘が激化する1967年にはこれまで暫定的であったLRRPは公式の認承を受けLRP中隊として再編される。 その結果航空爆撃の誘導、待ち伏せ、標的の補足など敵支配地域での高度な任務を遂行していくことになる。1966年9月、米陸軍の各歩兵師団と旅団に長距離偵察パトロール(LRRP)小隊の編成が許可され、第5特殊部隊(5thSFG)のB−チームがリコンドースクールを設置し、志願者にラープ訓練を開始した。 陸軍のラープ小隊もSOG(特殊作戦部隊)の任務に就いた。


南ヴェトナム軍事支援米軍司令部/特殊作戦部隊(MACV−SOG)
U.S.Military Assistance Command Vietnam-Studies and Observation Group

 陸軍特殊部隊、海軍特殊部隊SEAL、海兵隊リーコン(偵察部隊)および空軍・第90特殊作戦飛行隊の各特殊作戦部隊の 指揮・統制の統括をはかるため、1967年11月MACV−SOG司令部がサイゴン近郊のタンソニェット空港内に設立された。  
 このSOGは米国防省とCIAの直接指令で動き、陸・海・空軍・海兵隊の各特殊部隊から選抜された隊員が、 SOG司令部の直接指揮下で任務の期間だけ共同作戦をした。その作戦内容はMACVにも原隊である特殊部隊にも 知らされなかった。  
 MACV−SOG司令部の下には北部、中部、南部の各指揮・管制本部(CCN,CCC,CCSと呼ばれる) が置かれ、前方作戦基地(FOB−1/2と呼ぶ)を指揮したが、このSOGは対マスコミ向けに頭文字を取って「調査・観察グループ」というカバーネームで呼ばれた。この各軍統合の特殊作戦は1964年1月より立ち上がっており、 最盛期には2000名の米特殊部隊員と8000名のCIDG隊員が参加しており、最小だった南部の指揮・管制本部でも、 17の偵察チーム(RT)がいた。
 各指揮・管制本部と前方作戦基地(FOB)の所在地は次の通り
北部指揮・管制本部(CCN):ダナン 3カ所の指揮・管制本部の中では最大規模で、作戦地域はラオスと北ヴェトナム。
中部指揮・管制本部(CCC):コントゥム 作戦地域は南ヴェトナム、ラオスおよびカンボジア。
南部指揮・管制本部(CCS):バンメトゥート 3カ所の指揮・管制本部の中では最小の規模で、作戦地域はカンボジア。 (所在地)
FOB−1:バンメトゥート
FOB−2:コントゥム
FOB−3:ケサン
FOB−4:ダナン
 

SOG所属の偵察チームのラジオ・コード
CCN

RT Adder RT Alaska RT Anaconda RT Asp RT Bushmaster RT Connecticut RT Crusader RT Hawai RT Hunter RT Idaho
RT Indiana RT Ituder RT Kansasu RT Krit RT Louisiana RTMamba RT Mississippi RT Missouri RT Moccasin RT New jersey RT Noth carolina RT Ohio RT Rhode islandRT Rattler RT Sidewinder RT Viper RT Virginia RT Wasp

CCC
RT Alabama RT Arizona RT Arkansas RT California RT Colorado RT Delawere RT Hotcake RTIllinois RT Iowa RT Kentucky RT Montana
RT New mexico RT Texas RT Vermont RT Washington RT West virginia

CCS
RT Fork RT Lightning RT Mike facs RT Plane RT Spike RT Trowel RT Weather

 基本的に1個偵察チームは3名の米軍特殊部隊員と9名のモンタニヤードかヌン族のCIDG隊員で構成されるが、 作戦任務によっては5名の米軍と13名のCIDG隊員で構成される場合もあった。
 これらSOGの特殊作戦については、 現在でもなお極秘扱いで情報公開はされていない。
公式には、1965年から1972年の間に計2675回の越境偵察作戦が 行われ、103名の米軍特殊部隊員が戦死したという。


フェニックス計画(Project"Phoenix")

 1968年、共産側のテト(旧正月)攻勢後の3月にパリ和平会談が始まり、アメリカ議会ではヴェトナム戦争を南ヴェトナムに任せるヴェトナム化政策が決定した。 ヴェトナム戦争の早期終結を計るため、CIAはフェニックス計画を立案し、SOG部隊の志願者でPRUを秘密裏に組織した。このPRU(地方偵察隊というカバーネームのベトコン転向者のスパイ)を使用し、純粋な軍事作戦とは異なったベトコン幹部と支持者の暗殺である。  この秘密部隊の任務は、純粋な軍事作戦とは異なり 「テロにはテロで対抗する」もので、ヴェトコン幹部と支持者の脅迫、誘拐、そして暗殺であった。
 志願資格はヴェトナム・ツアー(ヴェトナム従軍)2回以上のヴェテランで、機密保全の完全な兵士が選ばれた。
フェニックス計画はマスコミに知られる1968年から1970年まで続けられた。ヴェトコンの手法を逆手に取ったこの計画は ヴェトコン組織をほぼ壊滅させ、活動停止にまで追い込んだ。元CIA工作員の推定では、約40000人を殺害したという。


オペレーション・アイボリー・コースト

 別名・北ヴェトナムのソンタイ捕虜収容所奇襲作戦は、1970年11月20日深夜に行われた。600人の志願者から選抜された53名がブル・サイモンズ大佐の指揮下で、同年9月9日から始まったコードネーム・バーバラと呼ばれるソンタイ捕虜収容所の原寸大モックアップを使った訓練を受けていたのだ。  だが、この米軍捕虜救出作戦は結果的に失敗した。
 彼らが攻撃をかけた時、捕虜はすでに移送されていたのだ。戦果は間違っておそった隣の北ヴェトナム通信学校のソ連軍人と北ヴェトナム兵、そして収容所の警備兵を全滅させたくらいで、情報収集能力の不足がこの作戦を空振りに終わらせた。  
 この作戦の期間後、当時のニクソン大統領から作戦参加者全員に銀星章が配られ、作戦は失敗したが捕虜の士気高揚に役立ったと発表された。
しかし、当時の米軍捕虜はこんな行動しかとれない政府に失望したといっている。

 
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