◆◇◆◇◆ フランスの植民地支配 ◆◇◆◇◆
1858年〜1945年

【南へ向かった艦隊】 
1858年、フランス艦隊13隻とスペインの軍船1隻がダナン沖に現れた。艦隊の装備は近代化されており、約三千名の兵を乗せていた。艦隊の当初の目的は、ダナンおよび首都フエを攻略して阮(グエン)朝を屈服させることにあったが、この目的は果たせず、翌1859年に南部へ向かって、サイゴン(現ホーチミン)を占領した。
その後、南部におけるフランスの領土拡張は続き、1862年にフランスと阮朝のあいだでサイゴン条約が成立して、ベトナム南部の東半分(メコンデルタの東部からサイゴンの東まで)がフランスに割譲された。
さらに1867年、フランスはわずか二千名たらずの兵力で威嚇することによって、南部の残りの西半分を奪い、これによってベトナム南部はすべてフランスの支配下に入った。

【東洋のフランス大拠点】  
南部を手に入れたフランスは、1873年から1882年にかけて、ベトナム北部にも兵を送り、これを占領した。この結果、1883年にフエ条約が結ばれ、北部・中部を含めてベトナム全土がフランスの保護下に入った。阮朝は外交権も失って、フランスによるベトナムの植民地化は完成した。
また、1884〜85年の清仏戦争では、フランスに敗れた清はベトナムにたいする宗主権を放棄した。これによって、ベトナムにたいするフランスの支配は国際的にも確立した。
これらと並行して、フランスはラオスとカンボジアの植民地化も進め、1893年までにはベトナム・ラオス・カンボジアをまとめて1つの単位とした。ここに、アジアにおけるフランス最大の植民地「仏領インドシナ」が成立した。かつて日本では仏領インドシナを略して仏印(ふついん)とよんだ。

【フエの傀儡王朝】  
仏領インドシナの枠内では、ベトナムはひとつの国としてのまとまりを失って3分され、北部は「トンキン」、中部は「アンナン」、南部は「コーチシナ」と称された。阮朝はフエに温存され、フランスの傀儡王朝として1945年まで存続した。仏領インドシナの頂点にはフランス人の総督が立った。
ベトナムの植民地化にあたっては、フランスは常にわずか数千名の兵力を用いることで、ベトナム全土の植民地化に成功した。その兵力詳細は、1858年のダナン攻略は3000名、1861年のサイゴン攻略は3500名、1867年のメコンデルタ攻略は2000名、1882年の北部攻略は約1000名余りと、小さな兵力であった。フランス軍が近代化されていたとはいえ、その侵入にたいするベトナムの抵抗力は驚くほど弱かった。

【日露戦争の衝撃】
1883年にベトナム全土がフランスの支配に入ると、国を奪われたことにたいする封建支配層の抵抗がはじまった。勤王(カンヴオン)運動とよばれるこの抵抗は、おもに北部と中部で発生したが、フランスにより順次鎮圧されて、19世紀末にほぼ終息した。
20世紀になると、フランスの近代思想が紹介されたことや、明治維新による日本の近代化の成功が知られたことによって、封建思想とは訣別した新しい運動が展開された。
とりわけ日露戦争(1904〜05年)で、ヨーロッパの大国とされていたロシアに日本が勝利したことは、ベトナムに大きな衝撃を与え、日本に範をとった近代化運動がはじまる。
この時期の運動は、ファン・ボイ・チャウとファン・チャウ・チンに代表される。
ファン・ボイ・チャウは1905年以降、東遊(ドンズー)運動とよばれる日本への留学運動を進め、1908年にはおよそ200人のベトナム人留学生が日本へ渡った。一方、ファン・チャウ・チンは民権思想を身につけたベトナム人知識人を創出することを主張し、その影響のもとに1907年ハノイに東京(ドンキン)義塾が創立されて、開明的な教育がこころみられた。
しかし、フランスの圧力によって、1908年に日本から留学生が追放されて東遊運動は挫折し、東京義塾は1907年に開校からわずか9ヶ月で閉鎖されて、継続的な成果を生むことはできなかった。

【ベトナム語のローマ字化】
フランスはベトナム南部では商品作物のプランテーション経営を進め、北部では鉱産資源の開発を進めた。その中でも、南部のコメとゴム(現在のミシュランタイヤの基礎となっている)、北部の石炭は、植民地ベトナムの最も重要な産品であった。
フランスは南北を縦断する鉄道を建設したほか、メコンデルタに網の目のような運河を掘りめぐらした。従来、低湿地のメコンデルタは利用困難な空間であったが、運河によって適度な排水がおこなわれて農耕と居住に適した場所にかわり、世界的に重要なコメの産地として発展をはじめた。
フランスによって西洋式の教育がもちこまれたことや、封建支配層が政治力を失ったことによって、儒教にもとづく従来の教育は廃れ、20世紀初めには科挙も廃止された。
また、行政文書上のベトナム語はローマ字で記すことが定められた。この表記法はクォックグー(国語)とよばれ、17世紀にフランス人宣教師アレクサンドル・ド・ロードによって考案されたものである。クォックグーは20世紀前半に、それまでの漢字やチュノムにとってかわり、現在ベトナム語の正書法となっている。

【共産主義とホー・チ・ミン】
のちにベトナム共産党の創立者となるホー・チ・ミン(1890〜1969年)がサイゴンから出国したのは1911年であった。彼は下層労働者として欧米各地を渡ったのち、植民地本国のフランスにおいて、グエン・アイ・コックの名で植民地支配を糾弾する活動をはじめた。
1917年のロシア革命後、ホー・チ・ミンはレーニン主義に出会い、植民地の独立を実現するカギは共産主義にあると考えるようになる。彼はソ連に入ったのち、まもなく共産主義の活動家として中国南部の広東に姿を現した。ベトナムに近い広東には、独立運動をこころざすベトナム人が集まっており、ホー・チ・ミンはこれらを組織して、1930年に香港でベトナム共産党を創立する。

【くりかえす党名変更】
その後ベトナム共産党は党名変更をくりかえしており、跡づけはやや複雑である。創立と同じ1930年、ベトナム共産党は早くもインドシナ共産党と改称する。インドシナ共産党は1945年にベトナム民主共和国の独立を指導するが、インドシナ戦争中の1951年にはベトナム労働党と改称した。
1954〜75年の南北分断・ベトナム戦争の時代、ベトナム労働党は北ベトナムの政権党であった。ベトナム戦争終結後の1976年、労働党は当初のベトナム共産党の名前に戻り、ベトナム社会主義共和国の政権党として現在にいたっている。
なお、植民地時代のベトナムでは、1927年に民権的な民族政党として創立されたベトナム国民党や、1923年にベトナム人有産階級を基盤として創立された立憲党がなどあったが、1945年以降さまざまな理由で姿を消した。

【日本軍の仏印進駐】
1939年にヨーロッパで第二次大戦がはじまり、1940年6月にフランスがドイツに降伏すると、日本はフランスと協定を結んで9月に仏領インドシナの北部に進駐し、つづいて1941年7月には南部にも進駐した。
仏印進駐によって、ベトナム全土は1941年7月から1945年3月までの期間、フランスと日本の二重支配下に置かれた。この期間、フランスは従来どおりベトナムの行政をとりおこない、日本軍はベトナムに駐留して東南アジアで軍事行動を展開した。
1941年、中国国境に近いベトナム北部の山地で、ホー・チ・ミンらの指導により、インドシナ共産党の下にベトナム独立同盟が結成され、日仏共同支配からの独立運動をはじめた。ベトナム独立同盟はベトミン(越盟)と略称され、共産主義者以外も含む幅広い民族組織となることをめざしていた。

【翌朝きえていたフランス】
大戦末期の1945年3月、在ベトナムのフランス軍がやがて連合国側に寝返ることを予見した日本軍は、インドシナ全土でフランスの支配機構の打倒を決行した。
日本軍の行動によって、85年のあいだ続いたフランスのベトナム支配は、ほぼ一夜にして消滅した。この日本軍の行動は「仏印処理」または「明号作戦」とよばれている。
単独支配を確立した日本は、阮朝最後の王バオダイをたてて形式的にベトナムを独立させ、連合国の侵攻にそなえた。しかし結局、連合国がインドシナに侵攻することなく、1945年8月、日本は降伏した。

◆◇◆◇◆ インドシナ戦争 ◆◇◆◇◆
1945年〜1954年  

【ベトナム民主共和国】  
1945年8月、日本が連合国に降伏すると、ベトナム独立同盟(ベトミン)は一斉蜂起して、ベトナム各地で権力を掌握した。9月2日にはハノイでホー・チ・ミンが独立宣言を読みあげ、ハノイを首都とするベトナム民主共和国が樹立された。
現在のベトナム社会主義共和国は、1945年成立のベトナム民主共和国を引き継いだものとされており、いまなお9月2日がベトナムの国慶節となっている。

【ふたたび南部から】
ベトナム民主共和国の独立と並行して、北緯16度線より北には中国軍(国民党政府)が、南にはイギリス軍が進駐して、日本軍の武装解除にあたったが、まもなく植民地支配の復活をめざすフランス軍が到着した。
フランスは数ヶ月内にサイゴンなど南部各地を占領し、ハノイを中心とするベトナム民主共和国(ベトミン政府)と対立した。両者は1年近くにわたって妥協点をさぐったが、1946年12月にフランスが北部に侵攻することにより、両者の全面衝突となり、インドシナ戦争がはじまった。

【山地と平野の対峙】
フランス軍は緒戦の段階でハノイを占領し、サイゴンとあわせて、主要都市および平野部を確保した。他方、ベトミン政府は紅河デルタから退いて、中国国境方面の山岳地帯にたてこもった。
ベトミン軍は、山地で掃討作戦を展開するフランス軍にゲリラ攻撃をしかけて悩ませた。しかし逆に、平野部に進出しようとするベトミン軍の作戦は、しばしばフランス軍の反撃に挫かれ、およそベトミン軍とフランス軍がそれぞれ山地と平野に拠りつつ対峙する構造が生まれた。
そのほか、どちらの支配下ともいえない地方も多く、そうした地域では、国内で戦争がおこなわれているという実感は少なかった。また、フランス最大の拠点サイゴンでは、ほとんど平時と区別のつかない生活が継続していた。

【新たな政治攻勢ベトナム国】
インドシナ戦争で膠着が続く1949年、フランスは阮朝最後の王バオダイを擁立して、南部にベトナム国を樹立するという新たな政治攻勢に出た。サイゴンを首都とするベトナム国は、まもなく国軍を備え、フランスから徐々に権限を移譲されて、国家の実体をもちつつあった。
フランスの傀儡的性格をもって出発したとはいえ、ベトナム人の国家を建前としたベトナム国に実体が備わっていくことは、ベトミン側にとって前途はかならずしも楽観的ではないことを意味した。

【冷戦構造への組みこみ】
このころ中国では、中国共産党が国民党との内戦に勝利して、1949年10月、中華人民共和国が成立した。まもなく1950年1月、中華人民共和国とソ連がほぼ同時にベトナム民主共和国を承認し、この年から中国がベトミンへの軍事援助をはじめると、インドシナ戦争の性格は大きく変わってゆく。
従来は植民地化勢力(フランス)と脱植民地勢力(ベトミン)の戦いの性格が濃かったインドシナ戦争は、これ以後、自由主義と共産主義のあいだの戦いの様相を呈した。アメリカも1950年からフランスへの援助を開始した。
全体として、インドシナ戦争は膠着状態が長びく戦争であったが、陸続きの中国からベトミンへの軍事援助がはじまって以降、ベトミンの好条件に傾く方向にあった。また、植民地大国イギリスが次々と植民地を手放すなど、世界の脱植民地化の潮流なかで、フランスはインドシナにこだわる意味を見失いはじめていた。

【ディエンビエンフーからジュネーブへ】  
1954年にベトナム北西部のラオス国境に近いディエンビエンフーで、フランス軍の要塞が陥落し、フランスはインドシナ戦争中で最大の痛手を負った。その一方で、ベトミン側も、軍事的には自力で首都ハノイを奪い返すという最終的な勝利を見込むことが難しく、戦争の長期化でアメリカが本格的な干渉にのりだすことを恐れた。
こうして1954年7月、双方の妥協のもとに、ジュネーブ協定が成立した。協定では、北緯17度線で南北ヴェトナムを分断することになる。これにより、北ヴェトナム(ヴェトナム民主共和国:首都ハノイ)と南ヴェトナム共和国(首都:サイゴン)という2つのヴェトナム国家が誕生することになる。この協定では、他国の軍隊を国内に入れてはならないという取り決めがあったが 、広く知られるように、アメリカは数十万の軍隊を派遣することになる。また北ヴェトナムも密かに中国と、ソビエトから物資や軍事顧問の支援を受けることになる。

◆◇◆◇◆ ベトナム戦争 ◆◇◆◇◆
1954年〜1975年  

【北ベトナムと南ベトナム】
ジュネーブ協定によってフランスはインドシナから撤退したが、ベトナムは南北に分断された。17度線の北にはベトナム民主共和国、南にはベトナム共和国がならび立つことになり、それぞれ「北ベトナム」「南ベトナム」と通称された。
北ベトナムはハノイを首都とし、南ベトナムはサイゴンを首都とした。両地域は協定の2年後に全国選挙をおこなって統一することが定められていたが、選挙は流れ、分断が固定化した。
当初、南ベトナムはバオダイを元首としていたが、1955年にアメリカの後押しにより自由主義体制をかかげる新国家「ベトナム共和国」へと移行し、ゴ・ディン・ジエムが大統領に就任したが北ベトナムからはアメリカの傀儡政権と揶揄された。
ゴ・ディン・ジエムの南ベトナムは、ベトナムでは少数派のカトリック信徒を基盤とする不安定な政権であった。とくにジュネーブ協定の成立時に、共産主義をきらって北部から南部へ逃げてきた90万人(うち3分の2以上はカトリック信徒)が、ゴ・ディン・ジエム体制の熱心な支持者になった。
他方、北ベトナムでは、1951年にインドシナ共産党から名前を変えたベトナム労働党が政権を握り、農業の集団化など社会主義政策が進められた。

【ベトナム戦争のはじまり】
1959年、北ベトナムは南ベトナムを支配下に入れることをめざし、軍事行動を起こすことを決定した。この決定にしたがって、1960年に南部で南ベトナム解放民族戦線が結成され、南ベトナムは政府軍と解放戦線のあいだの内戦状態に陥った。
ベトナム戦争がいつはじまったかについては、いくつかの考え方がある。南北ベトナムが分立して内戦の出発点となった1954年をはじまりとしてもよいし、解放戦線が結成されて本格的な内戦が発生した1960年、またはアメリカが本格介入した1965年をはじまりの年としてもよい。
南ベトナム政府は、解放戦線を「ベトコン」と蔑称した。ベトコンとは漢字「越共」のベトナム読みで、「ベトナム人共産主義者」「ベトナム共産党」を意味している。
北ベトナムは主として山中を走る南部への交通路「ホーチミンルート」や、海からカンボジア領を通過するルートを用いて、解放戦線へ物資を供給した。加えて1960年代半ば以降は、北ベトナムの正規軍も南部へ浸透していった。

【南ベトナム危機とアメリカの介入】
当初アメリカは直接的な軍事介入を避け、CIAと陸軍特殊部隊(グリンベレー)を派遣し、CIAは山岳民族(モンタニヤード)を教育し不正規民間防衛団(CIDG)を組織した。これは、後にマイクフォースと呼ばれる特別機動部隊へ発展する。グリンベレーは軍事顧問として南ベトナム軍へ協力するだけにとどまった。だが1962年2月にはサイゴンにMACV(在ベトナム軍事援助司令部)を設置するなど徐々に戦力を増加していた。
1960年代になると、ゴ・ディン・ジエムの弟ニュー夫人の『坊主のバーベキュー発言』をきっかけとして南ベトナムでは仏教徒を中心としてゴ・ディン・ジエム体制への反発が強まり、国内は動揺した。1963年にはサイゴンでクーデターが発生して、ゴ・ディン・ジエムとその弟ゴ・ディン・ニューは暗殺され、ゴ・ディン・ジエム政権は崩壊した。 その後の数年間は政治的な混乱が続き、農村部で解放戦線の支配が拡大するなど、南ベトナムは大きく揺らいだ。
こうした南ベトナムの危機を打開するため、アメリカは本格的な介入を決意する。ベトナムが共産化すれば近隣の国家にも影響を与えると言う『ドミノ理論』を展開し、直接介入を計った。アメリカはその口実として、1964年に北ベトナム沖でアメリカ艦艇が北ベトナムの攻撃をうけたとするトンキン湾事件をねつ造し、翌1965年から南ベトナムへの地上部隊の投入と、北爆と呼ばれた北ベトナムへの爆撃を展開した。
この『ドミノ理論』により近隣諸国も軍隊を派遣し1966年までに オーストラリア・ニュージーランド・フィリピン・タイ・韓国が参戦した。これらの軍隊は一時、連合軍(The Allied Force)と呼ばれたが、後にアメリカ軍を含めて軍事支援軍(Military Aid Force:MAF)と公式に呼称されることになる。特に韓国は朝鮮戦争の影響から共産主義に対する憎しみが強く、その攻撃は大変厳しくNFLからは米軍よりも恐れられた。だがベトナム国民からは同じアジアの住民がドルの為に(韓国はベトナム派兵と引き換えにアメリカから10億ドルの経済援助を受けた)同朋を殺しに来たと忌み嫌われた。実際に民間人を虐殺した例も多く一説によると韓国軍により虐殺された民間人は8,000人を超えると言う。
1960年代前半の南ベトナムの危機は、1965年にはじまる米軍の本格介入によって軍事的な安定がもたらされ、1967年にグエン・ヴァン・チュ―が大統領に選ばれて以降は、政治的にも安定へと向かった。
グエン・ヴァン・チュ―政権のもとでは、共産主義団体が禁止されるなどの制約はあったが、多党制にもとづく議会も成立し、南ベトナムは形式上、民主的な体制へと移っていった。同時に、米軍の地上作戦によって解放戦線の支配は縮小し、米軍の爆撃によってホーチミンルートの輸送能力は低下した。

【ベトナム戦争の折り返し点】
解放戦線は、こうした安定に向かう南ベトナムの情勢を一気にくつがえすことをねらって、1968年の旧正月(テト)、南ベトナム各地で一斉攻勢にでた。
首都サイゴンでは、チョロン地区で数日間戦闘が続いたほか、アメリカ大使館が解放戦線兵士の突入を受け、数時間占拠された。フエでも3週間にわたって激しい市街戦が続いた。
テト攻勢は、都市蜂起を誘発して、南ベトナム政府を転覆するという目的を達することはできず、解放戦線はすべての地点で軍事的に敗退して、大きな痛手をこうむった。
しかし、南ベトナムとアメリカ軍が有利に戦いを進めていると考えられていたなかで、首都サイゴンが攻撃を受けたことはアメリカにとって心理的な打撃であり、アメリカの世論をベトナムからの撤退に傾ける結果をもたらした。また翌年にはソンミ村での虐殺事件(ヘリコプターで襲撃し、無防備の老人、女性、子供などの村人504人を殺戮した事件)も明らかになり、アメリカ本土では反戦運動が激しさを増した。テト攻勢はベトナム戦争の折り返し点となった。テト攻勢自体は失敗に終ったが世論を動かした事で成功とも言える。

【カンボジアの異変】
解放戦線は南ベトナムに接するカンボジア東部を根拠地として使用していたほか、カンボジアを補給物資の通過点としても利用しており、カンボジアの元首シハヌーク殿下もこれを容認していた。
ところが1970年にロン・ノル将軍がクーデターでシアヌークを追放すると、ロン・ノル新政権は、解放戦線にたいしてカンボジア領から撤退することを求めた。
こうしたカンボジアでの新しい情勢に際して、アメリカと南ベトナム政府はカンボジア東部へ侵攻し、同地域から解放戦線を駆逐して、一定の成果を挙げた。しかし、このカンボジア侵攻は、以下のような仕組みで、カンボジアの内戦に火をつけることになった。
それまでのシアヌーク政権はベトナムの共産勢力に協力的だったため、カンボジアの共産主義者はハノイからの要請によって、シアヌークにたいする軍事活動を控えていた。しかし、反共的なロン・ノル政権の成立後は、もはや自制の理由がなくなり、カンボジアの共産主義者は国内で反政府ゲリラ活動を開始したのである。
カンボジア共産党を指導していたのはポル・ポトであった。
またラオスでも、かねてから共産主義勢力が活動しており、ベトナム・カンボジア・ラオスのインドシナ3国がいずれもが、アメリカを巻きこんだ内戦に陥った。このためベトナム戦争をふくむインドシナ3国の紛争を第2次インドシナ戦争と総称することがある。

【パリからサイゴンへ】
テト攻勢からまもない1968年、アメリカはパリで、北ベトナムとの和平交渉をひそかにはじめていた。この結果、1973年1月27日、北ベトナム政府、南ベトナム臨時革命政府(解放民族戦線)、南ベトナム政府、アメリカ政府の四者間に於いて パリ和平協定、正式名『ベトナムにおける戦争終結と平和回復に関する協定』が成立した。協定ではベトナムでの停戦とアメリカ軍の撤退が定められた。
8月15日、在ベトナムのアメリカ空軍が全作戦を終了し、1961年以来12年振りにベトナムを去った。これ以前の6月末、アメリカ議会はカンボジア、ラオスの共産勢力に対する爆撃を禁止していた。 こうして1973年8月15日以降、南ベトナムは完全に”ベトナム化“され、国家の存在を自分自身だけで守らねばならなくなったのである。しかし、南ベトナム政府と解放戦線とのあいだの戦闘は止まなかった。その後、南ベトナムへの北ベトナム軍の浸透がはげしくなり、協定から2年あまりのちの1975年4月30日、解放戦線と北ベトナム軍によって、ベトナム共和国の首都サイゴンが陥落し、ベトナム戦争は終結した。
ベトナム共和国歴代大統領

1955/10/26〜1963/11/2 ゴ・ディン・ジェム
1963/11/2〜1964/1/30 ズオン・バン・ミン(第一期)
1964/1/30〜1964/2/8 グエン・カーン(第一期)
1964/2/8〜1964/3/16 ズオン・バン・ミン(第二期)
1964/3/16〜1964/8/27 グエン・カーン(第二期)
1964/8/27〜1964/9/8 暫定指導者委員会(ズオン・バン・ミン、グエン・カーン、チャン・ティエン・キエムによる三頭体制)
1964/9/8〜1964/10/26 ズオン・バン・ミン (第三期)
1964/10/26〜1965/6/14 ファン・カク・スー
1965/6/14〜1975/4/21 グエン・バン・チュ-
1975/4/21〜1975/4/28 チャン・バン・フォン
1975/4/28〜1975/4/30 ズオン・バン・ミン (第四期)

参加国と犠牲者
国、団体
規模(最大時もしくは、総兵力)
死者数(約)
アメリカ軍
最大時549.500人のべ2,600,000人
5,7939人、MIA2,500人
南ヴェトナム政府軍
1,180,000人
250,000人 、民間人500,000人
韓国軍
51,800人
5,000人
タイ国軍
11,870人
300人
オーストラリア軍
7,670人
700人
フィリピン軍
2,200人
300人
ニュージーランド軍
500人
200人
台湾軍
30人
0人
ベトナム民主共和国軍
1,000,000人
NVA、NFL合計900,000人
南ベトナム民族解放戦線
100,000人
民間人 60,000人
中国軍事顧問
54,000人
不明
ソビエト軍事顧問
3,800人
不明
※負傷し後に死亡した人数は含まれていない。

また1960年から使用された枯葉剤の被害者は現在も後遺症を残す人などもおり、被害者数は200万人を超える。
ベトナム戦争時代にアメリカ兵とベトナム人の間にできたハーフたちはアメラシアンと呼ばれている(フィリピンの米軍基地周辺のハーフたちも同じくアメラシアン)。戦争終結後にベトナム人妻子とともにアメリカ本国に引き揚げた例よりも、妻子をベトナムに置いてきぼりにしたケースのほうが遥かに多かった。また父親が特定できずにアメラシアンを産み落とした娼婦たちや兵士にレイプされた上に不如意に子供を産んだ女性もいる。こうしたアメラシアンたちは青い目であったり、髪の毛の色がブラウンであったりして身体的特徴が顕著なので、戦後すぐに大きな問題になり、アメラシアンをアメリカが引き取る協定が結ばれた。アメラシアンの認定はもうほとんど終了しており、十数万人のアメラシアンがすでにアメリカの市民権を得ている。現在サイゴンのアメラシアン収容所に滞在している孤児たちは、アメリカ兵が父親であると立証できない子供たちだが、外国の兵隊にレイプされてできた子供であるのは確実であるのだけれどもDNA検定はアメリカ人の特徴が出てこないケースもある。ベトナム戦争にはタイや韓国なども派兵しており、彼らの子種であればアメリカ人の特徴が出てこないのは当り前で、母も子も犠牲者であることには違いない。彼らはアメラシアン的優遇をアメリカ政府から受けられるように認定を求めている。
そして戦闘や爆撃で親を失い孤児となった子供たちの数はアメラシアンよりも多いことは言うまでもない。


◆◇◆◇◆ ベトナム戦争後 ◆◇◆◇◆
1975年〜現在

【共産主義への急傾斜】  
サイゴン陥落後の南ベトナムでは、北ベトナムによる支配が急速に確立した。1976年6月末には、南北合同の国会がハノイで開催され、7月2日に南北の統一を決定した。統一された国の名前はベトナム社会主義共和国、国旗は金星紅旗、首都はハノイと定められたほか、サイゴンはホーチミン市と改称された。
1976年12月には、ベトナム労働党の大会が開催され、労働党はベトナム共産党へと名前を変え、全土を支配する党となった。本来、北ベトナムからは独立的な勢力だった解放戦線は、サイゴン陥落まもなく活動を停止され、他組織への併合という形で実質的に解散された。
ベトナム戦争中には予想しなかった速度で、ベトナムは共産党の支配が浸透した。

【混乱する南部経済】  
1978年になると共産主義への傾斜はさらに加速し、自由な商業活動が禁止されることになった。これによって、家族経営の小規模な経済単位を除いて、南部のおもな私営企業は没収されて公営化された。市場経済に基づいていた南部経済は大きく混乱した。
同じ1978年、農村でも集団化がはじまった。こうした南部にたいする硬直した政策は、人々の生産意欲を減衰させ、経済に壊滅的な影響がおよんだ。その結果、1970年代後半には食糧不足が発生し、ソ連からの穀物輸入でしのがざるをえない事態にいたった。
近隣のASEAN諸国の経済が大きく発展をはじめるこの時期、ベトナムは南部に残っていた経済システムの破壊に奔走していた。そしてこの時期、統一されたベトナムに絶望した人々が、大量のボートピープルとなって南部から流出をはじめた。
対外関係の面でも、共産主義色が濃くなった。1978年、ベトナムはソ連を中心とする共産主義国の協力機構コメコンへの加入を決定し、ソヴィエト陣営に加わることを鮮明にした。ベトナムは政治面でも経済面でもいっそうソ連依存を強め、それと並行して中国との関係は極端に悪化していった。

【都市も商業も廃止する】  
サイゴン陥落にわずかに先立つ1975年4月、カンボジア共産党もまた首都プノンペンを陥落させ、ポル=ポトを指導者とする共産政権「民主カンボジア」が成立した。
カンボジア共産党はクメールルージュ(赤いクメール)ともよばれ、都市や商業を廃止するという極端な共産主義の実現をめざした。その実現に不要とみられる国民は組織的に虐殺される一方、対外的には中国と密接な関係を保ちつつ、ベトナムに敵対する政策がとられた。
そのため、ポル・ポト政権が成立した直後の1975年から78年にかけて、タイニン省・アンザン省・キエンザン省などのベトナムとカンボジア国境地帯で、両国間の軍事衝突が相次いだ。
ポル・ポト派のカンボジア共産党はメコン川下流域やフークォック島をカンボジア領と主張していた。両国間の領土問題も紛争の原因のひとつだった。

【骨肉相食むカンボジア紛争】  
1978年12月、ベトナムはこうしたカンボジアとの問題を一挙に解決することをはかって、カンボジアに侵攻した。 ベトナム共産党とカンボジア共産党。ベトナム戦争中は親密な戦友とみなされ、かつインドシナ共産党というひとつの母体から生まれ出たこの兄弟党間の突然の激しいいがみあいは、世人の理解を越えており、世界は呆気にとられた。
侵攻からわずか2週間後の1979年1月、ベトナム軍はほとんど無人の首都となっていたプノンペンを占領。まもなく、ヘン・サムリンを中心とする親ベトナムの「カンボジア人民共和国」が樹立された。
首都から撤退したポル・ポト派は、地方や山地に拠点を移し、駐留ベトナム軍とヘン・サムリン政権への反撃を続けた。
ベトナム軍はヘン・サムリン政権を支えるために、十年間にわたってカンボジアに駐留し、ポル・ポト派との戦いをしいられた。
ベトナム軍の撤退は1989年になってやっと実現したが、この泥沼的なカンボジア紛争で、ベトナム軍の戦死者は、ベトナム戦争における米軍の戦死者にほぼ等しい5万人以上にのぼり、ベトナムは経済的にも社会的にも疲弊の極に達した。
対外関係でのダメージも大きく、ベトナムは好戦的なイメージを世界に与え、アメリカなどの西側諸国やASEAN諸国からの厳しい批判にさらされた。ベトナムは、ソ連などわずかな国を例外として、国際的にまったく孤立した。

【隣国を「懲罰」する中越戦争】  
ベトナムがカンボジアに侵攻した直後の1979年2月、ポル=ポト派を支援する中国は、大軍をもってベトナム北部に侵攻した。
中国はかねてから、ベトナムのカンボジアとの紛争や、ベトナムが国内の中国系住民を難民として流出させていることを強く非難しており、そのためベトナムを「懲罰」するというのが侵攻の理由であった。
中国要人によるこの大胆な「懲罰」の発言は、世界を驚かせた。しかし、中国の侵攻はまた、カンボジア領内でポル・ポト派を追撃するベトナムを、背後から脅かすという実際的な狙いも兼ねていた。

【深入りはしない】  
ベトナムに侵攻した中国軍は、ベトナム軍と激しく交戦し、国境に近いランソン・カオバン・ラオカイ・ライチャウといったベトナム側の町を占領した。
しかし中国は、ベトナムの後ろ盾となっているソ連の介入を懸念して、ベトナム領内に深入りはせず、作戦期間も限定して、侵攻から1ヶ月後の1979年3月、目的を達成したとして、ベトナム領から撤退した。
この時期、ベトナムからはボートピープルが激しく流出し、カンボジア侵攻とあわせて、ベトナムの国際評価は完全に地に落ちた。アメリカなど各国は「経済制裁」と称してベトナムへの禁輸措置をとり、日本政府によるベトナム向けODAも停止された。

【危機からドイモイへ】  
教条的な社会主義政策の失敗、大量のボートピープルの発生、泥沼のカンボジア紛争、北方の巨人中国との戦争。1970年代後半から80年代前半にかけて、ベトナムの国内は混乱し、対外的にも大きな危機に直面した。
こうした行き詰まりのなかで、ベトナムは政策の転換を余儀なくされ、1986年の第6回ベトナム共産党大会では、ドイモイ(刷新)とよばれる改革路線が打ち出された。
当初は政治改革にも言及したドイモイだが、中国天安門事件(89年)、ソ連・東欧の共産主義崩壊(89年〜91年)の後は、政治の民主化にたいして極度に警戒的となり、ドイモイは市場経済の導入および対外開放という経済面に限定する軌道修正がおこなわれた。

【対立関係の清算】  
1989年にベトナム軍がカンボジアから撤退すると、ベトナムが国際社会に復帰する条件が生まれた。さらに1991年にソ連が崩壊したことで、ベトナムはいっそう全方位外交を急ぐことになった。
1991年、ベトナムは中国との関係を正常化して、およそ15年間におよぶ対立の歴史に終止符をうった。カンボジア侵攻以来、長い間凍結されていた日本のODAも、1992年末に再開が発表され、アメリカによる経済封鎖も1994年に解除された。
1995年には、ベトナムはASEANに正式加盟したうえ、アメリカとの国交正常化も果たした。ベトナムは1990年代前半に、それまでの対立関係をほぼ清算することに成功した。
2000年には、アメリカとの通商協定が結ばれ、クリントン大統領のベトナム訪問も実現した。これは、ベトナム戦争後、現職アメリカ大統領による初めての訪越であり、米越関係の完全正常化を世界に印象づけた。

【世界第2のコメ輸出国】  
ベトナムは1980年代後半まで食糧生産がふるわず、ソ連などからの輸入に依存していたが、ドイモイによる市場経済導入で、90年代にはタイに次く世界第2のコメ輸出国に成長した。また1986年に生産がはじまった南部沖の海底油田も、その後順調に生産量が伸び、ベトナムを中堅の産油国に変えている。
こうした対外関係の改善と市場経済導入の結果、ベトナムへの外国投資が伸び、92年から97年にかけて8%〜9%台の比較的高い経済成長が実現した。
しかし、1997年7月にはじまったアジア通貨危機を境に、ベトナムへの外国投資は冷えこみ、ベトナムの成長率は98年には5%台、99年には4%台へと大きく減速し、ベトナム経済のもろさも垣間見せた。

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