■サイゴン陥落(13)解放戦線の虚構
南ベトナム領内で南ベトナム政府とその政府を支援する米軍に対して闘争を挑んできた勢力とは一体、なんなのか。南ベトナムの政府と軍隊に対して武力攻撃をかける人たちとは一体、だれなのか。この問いへの答えはベトナム戦争の本質の認識に直結している。サイゴンに毎日新聞の特派員として着任した私がまず真っ先に考えねばならなかった重要課題だった。
▼南独自の人民  
闘争を挑む当事者たちは自らを民族解放勢力と呼んでいた。この勢力は南ベトナムの政府がフランス植民地主義の下に育ち、アメリカ帝国主義の支援を受けた傀儡(かいらい)政権だからそれを打倒し、人民を外国支配のくさびから解き放つ、という目標を宣言していた。一九六〇年(昭和三十五年)に結成が発表された「南ベトナム民族解放戦線」(注1)という名の組織がその主体である。
この組織の活動目的はあくまで民族の独立であり、とくに特定の思想はなく、メンバーはみな南ベトナム土着の人間だという主張だった。北ベトナムとは別個の南独自の人民による、イデオロギーにとらわれない民族独立闘争のための組織というわけだった。
民族解放戦線は時のジェム政権に容赦のない武力闘争を挑んだ。数え切れないテロを断行した。もともと弾圧と独裁のジェム政権の側も過酷に反撃した。だが解放戦線側の軍事闘争は政治工作と相乗し、効果を高めて、政権の基盤を揺るがす。ここでジェム政権を従来、背後で支援していたアメリカが直接、部隊を投入して、南ベトナム政府を軍事面でも支えるようになった。
民族解放戦線の側は六九年には「南ベトナム臨時革命政府」の樹立を宣言する。民族解放戦線の拡大政治組織で、南ベトナム領内には従来のベトナム共和国(南ベトナム)政府以外にももう一つ政府を興しうる勢力がある、という建前だった。この臨時革命政府ももちろん北ベトナムとは別個の政体という主張だった。北ベトナムは南領内には北の兵士も闘士もまったくいないと宣言していた。
▼裏の真実  
結論を先にいえば、北ベトナム側のこうした宣言も主張も、みな壮大な虚構だった。歴史的な大フィクションだった。南ベトナムを主舞台とする三十数年の戦争は最初から最後まで北ベトナムに本拠をおくベトナム共産党が主導し、ベトナム人民軍が主役となった軍事、政治の闘争だったのだ。
しかもその戦いは外国の支配や支援を排除する民族独立の闘争であると同時に、マルクス・レーニン主義という強烈なイデオロギーに貫かれた共産主義革命でもあった。当事者のベトナム共産党がサイゴン陥落後に闘争中の「南ベトナム独自の人民の政治イデオロギーなき民族解放闘争」という構図がフィクションだったことをあっけらかんと暴露していた。
革命の当事者が自ら信ずる大義や正義のために戦術として虚偽のプロパガンダを叫び続けるのは、ごく自然である。だが革命に直接かかわりのない第三者が同じプロパガンダを流し続けるとなると、また別の問題だろう。日本の知識人やマスコミの多くが、知ってか知らずか、ベトナム戦争のこの虚偽を実態として受け入れ、語り続け、広め続けたのである。私も日本のそんな知的環境、政治的風土にどっぷりと漬かっていたから、現地で暮らし始めると、虚構と現実の落差にとまどうのは当然だった。
いま思えば、私の三年半のベトナム体験はこの巨大な虚構のさまざまな側面にだまされ、まどわされながらも、やがてはその一つ一つの仮面のほころびに気づき、裏の真実をのぞいて、頭を殴られる思いに襲われるという経験の連続だった。サイゴンに居を定め、ベトナム語を少しずつ覚えて現地の人に接近していくと、まず南ベトナムに戦いを挑む勢力をコンサン(共産)と呼ぶのがふつうであることを知った。そしてだれもがその南の共産勢力が北ベトナムと一体であり、その延長であるという認識をごく自然に持っていた。
サイゴンでは共産主義勢力をカクマン(革命)勢力と呼ぶ人もいた。だが日本のマスコミの大部分が使った「解放勢力」という表現を使うケースは官民ともになかった。南ベトナム民族解放戦線という組織の省略名称としてマッチャン・ジャイホン(解放戦線)という固有名詞は使われた。だがジャイホン(解放)という言葉だけを単に形容や特徴づけとして用いる「解放側」とか「解放勢力」「解放軍」という表現はまず絶対に使われなかった。
▼不当な偏向  
欧米のマスコミも同様だった。AP(注2)やUPI、ロイター(注3)、AFP(注4)という国際通信社も南ベトナム政府を攻める側を「共産側」「共産軍」とか「北ベトナム軍」「ベトコン」、あるいは「革命勢力」と表記する場合がほとんどだった。「解放軍」とか「解放勢力」という言葉を一般表記として使う例は私の知る限り皆無だった。解放戦線の名称として使う場合は別である。
「解放」という言葉は政治プロパガンダとしては強力な機能を果たす。「束縛を解いて自由にする」という言葉の意味自体にすでに主観的な価値判断が入っているからだ。「解き放つ」という言葉そのものが正しいことをする側という意味に通じるからである。闘争の両当事者の一方を解放側と断じれば、他方は束縛側とか弾圧側となってしまう。正義側と邪悪側と呼ぶほどの主観的なレッテル言葉なのである。
もし朝鮮半島で戦争が起きて、北朝鮮の軍隊が南下して韓国軍と米軍を相手にして戦う場合、日本のマスコミがその北朝鮮武装勢力を解放軍とか解放勢力と呼んだらどうだろう。北朝鮮はかねてから韓国の米国帝国主義からの解放を唱えてきたから、北の立場からはそれほど非現実的な想定でもないだろう。だが米韓の立場、あるいは国際的な立場からすれば、アメリカの同盟国である日本が同じ同盟国の韓国が攻撃され、敗退することを「解放」と呼ぶのがいかに奇異な主観かはわかるだろう。
革命をする側が自らを解放勢力と呼ぶのは自らの闘争を正義と断じる主張の反映として、それなりに自然ではある。だが革命をされる側からすればとんでもない暴力勢力、無法勢力となる。第三者にとっては闘争の一方を解放側と呼ぶのは、そちらの側がすでに正義だとする基本的な価値判断を下すことに等しい。日本のマスコミの多くはベトナム戦争では共産主義の革命を進める側を解放側と呼んだのだった。その用語の選択は客観報道からの逸脱といわざるをえまい。
とくに極端なのは全国の新聞など各マスコミにニュースを流す共同通信社(注5)だった。共同はベトナム戦争中、APとかUPIという外国通信社のサイゴン発などの記事の翻訳では革命勢力を評するのにいつも解放勢力という用語を使っていた。原文では「共産軍」とか「北ベトナム軍」となっている英文記事でもなぜか共同が和訳して各新聞社に配信する日本語記事ではみな「解放勢力」とか「解放軍」「解放側」となっていた。もし意図的に英語の原文を異なる意味の日本語にしていたとしていたら、国際規模の不当な偏向ジャーナリズムということになろう。 
《豆事典》
(注1)南ベトナム民族解放戦線 
1960年12月に反ゴ・ジン・ジェム政権・反米と南北ベトナム統一を目指して設立された。62年には北ベトナムのベトナム共産党が公然と指導層に加わり、米国は共産主義勢力として、その軍事組織をベトコン(越共)とも呼んだ。公式にはサイゴン陥落後の76年6月、ベトナム社会主義共和国の誕生とともにベトナム共産党に統合された。
(注2)AP通信社 ASSOCIATED PRESS。
世界最大の通信社。1848年にニューヨークの新聞6社が欧州情報を共同で配信する組織をつくったのがはじめで、新聞協同組合として運営され、APから記事配信を受ける米国内加盟社はAP側に分担金と地元ニュースなどを提供する。
(注3)ロイター通信社 
1849年にパリで電信・伝書バトによる通信事業を始めたドイツ生まれの英国人電信技士ポール・ジュリアス・フォン・ロイター(1816−99)が、英仏海峡に電信回線が敷設された1851年にロンドンで創設した。当初は商業通信を手がけ、次第に新聞社などの配信先を増やした。現在はオーストラリア、ニュージーランドを含む通信社・新聞社の共同機関的組織(REUTERS TRUST)となっている。
(注4)AFP(フランス通信社) AGENCE FRANCE PRESS。
フランス政府から助成を受けている半官営の国際通信社。前身は1832年にパリで設立された外国新聞の翻訳・配信サービス会社「アバス」。1835年に世界最初の近代的ニュース通信社に衣がえし、19世紀中には世界中に特派員を派遣し国際ニュース報道の体制を整えた。第2次大戦では多くの社員が反独地下活動に加わり、パリ解放後の1944年に現在の名前となった。
(注5)共同通信社 
大正3年(1914年)発足した国際通信社が大正15年(1926年)に日本新聞連合社に改組、昭和11年(1936年)には電通の通信部を合併して同盟通信社となったが、戦後の昭和20年(1945年)11月にマスメディア向けの共同通信社と、一般法人向けの時事通信社に分かれた。加盟新聞社の出資による社団法人というのが建前となっている。

■サイゴン陥落(14)パリ和平協定
パリ和平協定が発効した日の早朝、サイゴンの空はあかね色に美しく彩られていた。私は大統領官邸の周囲をゆっくりと車で走りながら、そんな情景を眺めた。さわやかな空気のなかで、中央郵便局前のカトリック教会の鐘がすずしく鳴り響いた。和平協定による停戦の発効を告げる鐘だった。
▼弔鐘  
協定は停戦や民族和解への手続きを詳しく決めていた。全世界を揺るがしてきたベトナム戦争の終わりを宣言していたのだ。街路を往来する人やバイクの動きにもほっとした様子がうかがわれた。私もひょっとしたらベトナム戦争はこれで本当に終わり、真の和解や平和が実現するのではないかと一瞬、思った。一九七三年(昭和四十八年)一月二十八日のことである。
だが和平協定は完全な停戦をただの一日も、もたらさなかった。アメリカの離脱だけは徹底して達成された。だが協定は戦うベトナム人同士に和解はもたらさず、二年後に北ベトナムが協定で禁じられた軍事力で南ベトナムを滅ぼす結末となった。振り返れば、あの朝、サイゴンで聞いた和平の鐘は南ベトナムへの弔鐘でもあったのだ。
前年の七二年三月末から始まった北ベトナム軍の春季大攻勢はクアンチ、コンツム、アンロクという三省都を主目標に激しく続いた。北軍は当初、クアンチを占拠したが、その後、南ベトナム軍の必死の反撃で撤退し、省都を一つも保持できないまま夏を迎えていた。この過程では米軍の空爆と艦砲射撃とが南軍への強力な支えとなっていた。
私は戦局の報道に全力をあげ、前線のかなり近くまで出ての取材を続けた。トンキン湾(注1)で北ベトナムへの空爆を実施するアメリカ空母へも飛んだ。クアンチの戦場で死んだ北ベトナム軍兵士の日記を入手し、訳文を読んだ。グエン・ジン・タオというその兵士はハノイに残した妻の身を思い、故郷のジャスミンの花の香を懐かしみながら、人民の理想のために死ぬという決意を記していた。私はそれを熟読し、この戦争が「話しあえばわかる」という性質の闘争ではないのではないかと、初めて感じさせられたものだった。
しかし戦場での攻防もやや鎮静するにつれ、サイゴンの街には「停戦交渉」とか「アメリカの全面撤退」といううわさが流れ始めた。七二年七月にアメリカのヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官と北ベトナムのレ・ドク・ト労働党(現共産党)政治局員がパリで秘密に会談したことが明るみに出たのが契機だった。
この会談は内容を秘密にしたままその後、何度も重ねられた。一度、終わるたびにキッシンジャーか、その副官のアレグザンダー・ヘイグ(注2)が特使としてサイゴンに飛んできて、チュー大統領ら南ベトナム首脳に会見した。私たち特派員はそのたびにタンソンニユット空港に出かけ、アメリカの特使に質問をぶつけた。熱気でかげろうの揺らぐ飛行場に降り立ったキッシンジャーもヘイグも愛想はよかったが、会談の内容はなにももらさなかった。
▼突然の暴露  
私の特派員活動もそれまでは炎天下を飛びまわり、みたことをただ書くという戦場取材が主だったのが政治家や外交官との話しあいから意味ありげな情報の断片を拾いあげ、モザイクを組んでいくような政治取材へと変わっていった。
アメリカがベトナムから完全に離脱しようとしていることはもう明白だった。南ベトナム政府への軍事、経済の間接援助は続けるが、戦争自体はベトナム化して後はベトナムの当事者同士にすべてを任せる、という姿勢である。ただアメリカの撤退は敗退であっても、同盟国の放棄であってもはならない。「名誉ある撤退」というわけだった。
だが当然ながら南ベトナム側は、各界こぞってこの頭越し交渉に反発した。米軍捕虜を北側から取り返し、一日も早く南から撤退したがるアメリカに不利な協定を押しつけられてはたまらない、という抵抗だった。南ベトナムからアメリカは全面撤退するのに北ベトナム軍の大部隊は手つかずなのはおかしい、というような苦情でもあった。
チュー大統領はアメリカへの抵抗の過程でアメリカで教育を受けたオイのホアン・ドク・ニャという青年を重用した。ニャは長身のハンサムな人物で、キッシンジャーをみおろすようにして、なめらかな英語で議論を展開し、米側からは嫌われ、南ベトナム側では一時、人気を博した。やがてアメリカと北ベトナムの合意は南ベトナムの反対のために協定にはできないという状態ともなった。
北ベトナムはそんな事態に不満を爆発させた形で七二年十月二十六日、協定草案を突然、ハノイ放送で暴露する。アメリカはチュー大統領に対し協定にあくまで反対するなら援助をすべて打ち切ると脅してまで同意を迫る。だがこんどは北ベトナムが要求を拡大する。アメリカが反発して、北の中枢にかつてない規模の大爆撃を断行する。七二年暮れから七三年初頭にかけての「クリスマス爆撃」(注3)だった。
そんな曲折を経てなんとかまとまった協定は、南ベトナムでの停戦と北ベトナムへの米軍の空爆停止、米軍の撤退と米軍捕虜の解放をまずうたっていた。政治面では南ベトナムは国際的監視の下に総選挙を実施して、自らの将来を決める。その選挙の実施のために南ベトナム政府と南ベトナム臨時革命政府は第三政治勢力を加えて三派平等の「民族和解一致全国評議会」を樹立することになっていた。
▼特異な役割  
この協定は七三年一月二十七日にアメリカ、南北ベトナム、南臨時革命政府という四者により調印された。正式には「ベトナムにおける戦争終結と平和回復に関する協定」と題された。全世界はベトナム和平の到来として歓迎した。
日本でも和平協定にチュー大統領が反対している段階からチューを「平和への障害」と糾弾し、「一日も早い協定を」と叫ぶ声が圧倒的だった。その声は「ベトナム戦争はアメリカさえ去れば、ベトナム人同士が話しあい、民族の和解と平和とが必ず実現して、円満に終結する」という主張に基づいていた。だがこの協定できちんと実現されたのは米軍の撤退と米軍捕虜の返還だけだった。民族の和解も恒久の平和も、協定がうたう話しあいや総選挙によっては決して実現することがなかった。
あの協定は結局なんだったのか。私はニューヨーク・デーリー・ニューズ(注4)のジョー・フリード記者の言葉を思いだす。フリードは当時、サイゴン駐在十年のベテランだった。
「いいか、だまされるなよ。パリ協定なんてアメリカのベトナム離脱のための出国ビザなんだ。米軍捕虜を取り返し、一応の格好をつけて去るためだけの書類だよ。後は南ベトナムがどうなろうが知らぬ顔、武器と弾薬は提供するからベトナム人同士で好き勝手にやってくれ、というわけさ」 だがアメリカはその武器と弾薬の提供さえ打ち切っていく。そしてパリ和平協定は北ベトナムの勝利と南ベトナムの崩壊への道を開くという特異な歴史的役割を果たしていくのである。
《豆事典》
(注1)トンキン湾 
ベトナム北部と中国南部に挟まれた奥行き約500キロの湾。沿岸には港も多い戦略的要衝。1964年には米駆逐艦が北ベトナムの哨戒艇に攻撃されたとして米軍が報復空爆を実施、ベトナムへの軍事介入を開始した「トンキン湾事件」の舞台ともなった。
(注2)アレグザンダー・ヘイグ(1924年− )
陸軍軍人として朝鮮戦争、ベトナム戦争に参加。70年に国家安全保障会議のメンバーとなり、72年から73年にかけて、ニクソン米大統領とグエン・バン・チュー南ベトナム大統領の間の連絡役となる。73年、陸軍参謀次長、次いでニクソン政権の首席補佐官となり、74年には北大西洋条約機構(NATO)軍最高司令官。その後、ユナイテッド・テクノロジー社長に転身した。81年にレーガン政権の国務長官に登用されるが、中東政策などをめぐる政権内の意見対立から82年、辞任した。88年に共和党保守派として大統領候補指名を目指すが予備選段階で脱落した。
(注3)クリスマス爆撃(ラインバッカーII作戦) 
1972年12月18日から実施されたベトナム戦争での米軍最後の北爆作戦。第2次大戦以来最大規模の爆撃機編隊が投入され、初日は3波に分かれ、129機のB52爆撃機が空港や鉄道施設を目標にハノイ近郊を爆撃した。11日間の作戦を通してグアムやタイから飛来したB52は延べ約700機、戦闘爆撃機は延べ約2500機が参加、爆弾投下量は約4万トンに上った。米軍は15機のB52を含む計26機を北ベトナム軍の防空ミサイルなどにより撃墜されたが、北ベトナム側も空襲で甚大な被害を被り、和平に傾いたとされる。
(注4)ニューヨーク・デーリー・ニューズ 1919年創刊、ニューヨークで発行されているタブロイド判大衆紙。かつてはアメリカ最大の220万部を発行した。

■サイゴン陥落(15)チュー政権打倒
戦火の南ベトナムでは私はとにかく現地のふつうの人たちが戦争をどうみているかを知りたいと思った。そのために知らず知らずのうちにその地の風土や社会や習慣になじもうとする努力を重ねていったようである。歩を進めるにつれ、新しく意外な発見に、いやこんなはずはない、これは間違いだろう、といった驚きと疑いに襲われた。それがさらに前に進むエンジンとなった。
▼庶民の本音  
私が接し、問いかける南ベトナムの人たちは一様に「チュー政権もいやだが、コンサン(共産側)はもっと嫌いだ」という反応をみせた。アメリカや米軍将兵に対してもとくに嫌悪も恐怖もみせない。むしろ好意をみせる人も多い。日本で理解していた反応とは正反対である。どうして日本の新聞で読んでいたこととは違うのか、という疑問に当然、襲われた。
当初は私にそんな反応をみせるベトナムの人がウソをついているのではないか、とうたぐった。ベトナム共和国では解放戦線への支持表明は犯罪とされる。背景のわからない外国人に危険を冒して真実を告げるのは愚の極みだろう。それに革命側を嫌いだなどというのは一部の金持ちだけなのではないか。
そういぶかりながらなお探求を続けた。だがベトナム語を学び、広い階層の人と接すれば接するほど、革命勢力を恐れ、嫌う心情の吐露にぶつかるのだった。しかも本音を語っているとしか思えない反応なのである。たとえばサイゴンの洋装店で働く二十代後半のマイという女性は幼時の体験をためらいがちに語った。 
「私は十歳のときに解放戦線のゲリラに誘拐されたことがあるのです。両親がミト(注1)でわりに大きな商店を開いていて、金持ちとみなされ、身代金を求められました。そういう誘拐は多いのです。私は数日間、縛られて目隠しをされ、メコンデルタの奥の小島に監禁されたのですが、その間にゲリラが同じ場所に捕まっていた男の一人を処刑したのです。私はその男の殺される声が忘れられません−」 男はおそらく同志を裏切ったのだろう。ナイフのような刃物で刺され絶叫をあげて死んでいった。マイはその後、両親が身代金を払ったおかげで解放されたが、男の叫びがいつまでも耳に残った。その後は解放戦線というと、どうしてもその声を思いだし、恐怖を感じてしまうというのである。マイは私の支局に勤めるベトナム人女性の友人だった。
南ベトナム政府も革命側を同様に殺していた。米軍も革命ゲリラを暗殺するフェニックス(不死鳥)作戦(注2)を展開していた。戦争は殺しあいなのである。だから革命側のそんな粛正行為だけを取りあげて、一般民衆の反応を論じるのは不公正ではあろう。
▼反共産主義  
だが親しい友人や兄弟を戦闘で失ったという南ベトナム軍の若い兵士たちが腕に「コンサンを殺す」などという入れ墨をしているのをみると、長年の闘争で積み重ねられた本能的おん念の深さを認めざるをえなかった。ベトナムでの戦争はそのうえ戦場の区分がはっきりしなかったため、殺しあいは民間の領域にまで複雑な形で広がっていた。こうしたおん念の広がりがわかると、「チュー政権は嫌いだが、北ベトナムや解放戦線はもっとずっと怖くて嫌いだ」という人たちがなぜ多いのかも、おぼろげながら判明してくる。
ただしこの種の憎しみや恐れは理屈抜きの心情だったといえよう。闘争のそもそもの原因となった民族独立とか共産主義という理念とはまた異次元の感情だろう。だがサイゴン市民にはコンサンの社会体制では個人の自由や権利が犠牲にされ、反対分子は有無をいわさず切り捨てられる、というような漠然とした政治意識をそれなりの言葉で語る人も少なくなかった。
共産主義勢力へのその種の反発にはチュー政権やアメリカによる反共宣伝の受け売りも多々感じられた。だが実際に革命側地区で生活した人たちからの伝聞もよくあった。その種の共産主義への反発の由来をさかのぼると、やはり一九五四年のジュネーブ協定成立で北ベトナムから南へ移住したカトリック教徒たちの体験に突きあたる。
北ベトナムに住むカトリック教徒約百万人は共産主義政党の独裁支配下に住むことを嫌い、南ベトナムへ移るという道をみずから選んだのだった。この人たちは短期間にせよ、ホー・チ・ミンの率いるベトナム労働党(現共産党)が政権をとり、統治を始めてからの北ベトナムの各地域で生活した体験を有していた。彼らは共産主義無神論の政権による信仰の自由の抑圧が南下の主な理由だとしていた。この北のカトリックの人たちは、共産主義がどんなものか、自分たちはよく知っているのだ、と自信に満ちた口ぶりで語るのだった。
▼神父の闘争  
こうしたカトリック教徒が集中して住む地域としてはサイゴン北東三十キロほどのホナイの町が有名だった。国道一号線沿いのこの町はわりに狭い地域に大きな教会がいくつも立ち並ぶために、車を走らせて入るだけですぐわかった。町には製材や家具の製造、販売の店がずらりと軒を連ね、ぎらぎらとした活気がみなぎっていた。 ホナイの町の住民七万人はほぼ全員が北ベトナム出身のカトリック信者だった。町は七教区に分かれ、それぞれ教会と神父とが核となり、個別の行政単位ともなっていた。神父の多くは北ベトナムで実際に武器をとって、ベトミン軍と戦った経験を持つ反共の闘士でもあった。
しかしカトリック教徒は南ベトナム政府に対しても激しい闘争を挑んだ。このへんがベトナム戦争の知られざる複雑な側面だった。七三年一月にパリ和平協定が成立して間もなく結成された「南ベトナム刑務所施設改善要求委員会」という組織では、チャン・チンというカトリック神父が指導者となっていた。この組織はチュー政権に対し政治犯の釈放や待遇改善を求める反政府グループだった。
チャン・フー・タン神父が率いる「反腐敗人民運動」(注3)という組織もチュー政権に対し根強い抗議活動を続けた。七四年から七五年にかけ、全国規模でデモや集会をたびたび開き、チュー政権に汚職の一掃を迫るとともに、チュー自身の辞任までも求めるにいたった。タン神父はさらに七五年春、北ベトナム軍の総攻撃でチュー政権の基盤が揺さぶられると、「救国行動委員会」という組織をつくり、チュー打倒を叫んだ。民族和解の新政権ができれば、北が停戦の交渉に応じると主張したのだった。
革命側はカトリックの反政府行動にはいつも支援を送った。だがいざ南ベトナム全土を制圧すると、こんどカトリック組織をあっさりと抑えこみ、骨抜きにしたのだった。
私はサイゴン陥落から二カ月ほど後、タン神父を市内の教会に訪れた。教会内部の薄暗い一室にひっそりと座ったタンはチュー打倒を街頭で叫んでいたころとは別人のようにやつれていた。「とにかくすべては過ぎ去ったのです」と口ごもりながら語る様子が痛々しかった。
《豆事典》
(注1)ミト ベトナム南部、サイゴンから南西約70キロのメコンデルタ低地にあり、ティエンジャン省の省都。17世紀に中国の明が滅んでやってきた難民が先住クメール人を追って定住したが、1862年にベトナムがフランスに割譲、仏陸軍の手で湿地の排水が行われ、稲作・ココナツなどの農耕が始まった。ベトナム戦争では戦火の被害を大きく受けた。
(注2)フェニックス作戦 1968年、浸透するベトコン情報員を一掃し、ベトコン協力者を威圧する目的で、米軍とCIA(米中央情報局)が南ベトナムの警察・情報・軍当局と共同で開始した摘発作戦。ポスターやパンフレットなどメディアを利用してベトコン協力者の潜伏場所の密告を奨励するとともに、共産側からも情報提供者や亡命者を取り込もうとした。また、ベトコン情報網への逆浸透作戦を行い、南の各農村などでベトコン容疑者のブラックリストを作成、特殊部隊による容疑者の大量逮捕、拷問・処刑も行った。無実の犠牲者が多数出た一方で、共産側の情報網も甚大な被害を受けたといわれる。
(注3)反腐敗人民運動 ベトナムのカトリック教徒はゴ・ジン・ジェム政権時代は政府支持が多かったが、チュー政権では次第に官僚や軍人の腐敗に反感が広がり始め、1974年6月、301人の神父が「チュー政権の腐敗、汚職に挑戦する」との宣言を発表、同年8月に指導者のチャン・フー・タン神父を議長とする反チュー政治組織「反汚職人民運動」を結成した。タン神父らは翌9月、ユエ(フエ)で5000人規模の大衆デモを組織、政府批判はアンクアン寺派の仏教徒などにも広がっていった。その後、タン神父らは75年3月には、グエン・カオ・キ元副大統領らとともにチュー政権にとってかわる反共、非共陣営を糾合した新政権の樹立を目指す「救国行動委員会」を結成した。

■サイゴン陥落(16)虚偽と打算の街
戦火のなかの南ベトナムはふしぎな魅力の国だった。サイゴンの社会には嫌悪を催すいやらしさと、胸にしみるけなげさとが雑居していた。人間の醜さと美しさ、悲しさと明るさがむき出しの世界だった。ベトナム土着の原色の風俗の上に中国、フランス、アメリカの文化を加えて、かきまわした東と西、旧と新との混然一体の社会でもあった。精霊信仰や運勢占いが完ぺきなフランス語で語られる、というふうなのだ。
▼直情の背後  
南ベトナムの人たちは本来の民族性からか、戦争による死生観からか、情を素直にほとばしらせるようにみえた。肉親の死への号泣、政府の無法への悲鳴、しっとに狂う金切り声、だまされて怒る罵(ば)声…。人間のそんな激情が日常にあふれているのだ。東京の満員の地下鉄で通勤客がみせる抑えた表情とはちょうど正反対だった。
だがその一方で、サイゴン社会にはだれも心底は他人を信じないという虚偽と不信の志向も強かった。直情の背後にしたたかな二面性がちらつく。人の裏をかきあうウソが飛び交う。だまさなければ、だまされる。金銭万能の傾向が強い。カネだけがものをいう。腐敗と背徳の社会でもあったのだ。
だが私はまずベトナムの男女がいつ襲ってくるかわからない死とか破壊の影に耐えて、ひたむきに、明るく生きている姿に心を揺さぶられた。自分のそんな反応がいかにも平板だとは思ったが、のどかな晩春の東京から戦火の地に飛びこんできて目撃した人間の生き方の対照は強烈だった。
私はとくに一九七三年(昭和四十八年)一月にパリ和平協定が成立した後、ベトナムの人たちに広く深く接し、その喜怒哀楽を身近に感知するようになった。和平協定でたとえ虚構にせよ、平和の展望が生まれた感じのサイゴンでは軍事情勢を追うことを小休止して、サイゴン社会に踏みこむゆとりが出てきたのだった。
▼したたかさ  
しかしサイゴンの生活になじむまでには手痛い目にもあった。とにかく外国人は富裕だからいくらだましても当然という了解があるようなのだ。もっともベトナム人同士でもだまされて損をすれば、だまされた方がおろかだとする風潮もあった。
美容院経営の中年女性が所有するという市内の中心部のアパートを借り、契約書らしい書類にサインして住み始めると、早朝、見知らぬ男が訪れて「あなたの入居は違法です」と告げる。女性はその男から借りたアパートを無断でまた貸ししたというのだ。
なんとか話をつけ、こんどはさらにまたかなり高い代金を払って、そのアパートに電話をつけた。翌朝、ベルが鳴ったので受話器をとると、もう二人の男が話しあっている。なんのことはない。独立した電話ではなくて隣の家との親子電話を私のアパートに延長してきただけと判明した。もちろん代金は電話の新設分を取られたのだ。 自動車は盗まれるし、空き巣にも入られた。風土病の一種にかかり、しばらく寝たきりだった後、やっと回復して外出したその夕にアパートに泥棒に入られたのだ。ガラス窓を割られて、侵入されていた。現金、カメラ、録音機など根こそぎに盗まれた。
アパートに掃除と洗濯にくるベトナムのお手伝いの女性には引き出しやズボンのポケットに入れた現金を少しずつ、ずいぶん長い期間にわたって盗まれていたことがわかった。友人とブンタオ(注1)という海岸に泳ぎにいったときは子供たちに車のカギを盗まれ、それを買い取れと迫られて困った。
汚職もものすごかった。官庁からなにか許可を得るには賄賂(わいろ)がつきものだった。車を運転していると、警官に理由もなく止められ、運転免許とか車検とかに文句をつけられ、賄賂を要求された。安い額ですむから、つい払ってしまう。なにしろ火事で出動してきた消防車の放水の分量が賄賂の額で左右される社会なのだ。
ただし賄賂には一定のルールがあることや、一般市民から汚職への怒りの表明があることは救いだった。国軍のパレードで最後尾に国家警察の武装警官たちが行進すると、観衆からは「ホイロ(賄賂)!」「ホイロ!」というあざけりの声が飛んだりするのだった。
▼悲劇を笑いに  
しかしえげつなく醜い表面のどろどろをかきわけて社会の奥に踏みこんでいくと、根底にはびっくりするほど無垢(むく)な人間の姿があった。ウソと打算の格子の向こうには明日知れぬ日々を必死で生きる薄幸な男女のひたむきな生活があった。私はベトナム語を覚えながら、平均的な階層の人たちとの親交を深めるにつれ、南ベトナムの特異な人間社会の内側のそんな魅力と迫力に強烈にひかれていった。
日本ではとっくに古すぎるとして片づけられる家族や親族への滅私の義務が、なお生き方の支柱となっている。友人知人とのつきあいでも、恩義やメンツの意識が身を処すうえでの最大の尺度となる。多くの人たちは目前の打算を重視するようでも、心底では美しいことに感動し、悲しいことに涙し、正義をたたえるという素直な感受性を秘めているようだった。
ただ戦乱で荒れた社会をそうした純粋な感覚だけで歩めば、たちどころに傷つき、打ちのめされる。だからだれもが打算や虚偽のよろいを身につけて自分を守る。とくにだれが敵だか味方だかわからない内戦では他人を簡単には信用できない。なにしろ死がすぐ身近にあるのである。ちなみに南ベトナムの人たちのこうした生活ぶりは産経新聞サイゴン特派員だった故近藤紘一(注2)の一連の著書に生き生きと描かれている。
当時の私はベトナムの人たちのそんなよろいの下のまっとうな人間性をかいまみたとき、素直に感動を覚えた。ほっとした安堵(あんど)でもあった。彼らの表面のしたたかさにさんざん挫折と失望を味わわされ、もうあきらめかけていたからだろう。
やがてだれもが戦争での悲しく痛ましい体験にじっと耐えていることが実感としてよくわかってきた。小さな商店の店頭に立つ六十代のごく平均的な男性が実は三人の息子をほんの一年ほどの間にあいついで戦死させていた。ナイトクラブで働く二十歳そこそこの女性が実は妊娠七カ月のときに夫を戦場で失って、遺児を自分の母とともに養っていた。
そんな悲劇の部分だけをみれば、自殺をしても追いつかないほどむごい人生のはずなのだが、彼らは極限のなかでそれなりに生活と自由を楽しむすべを知っているようだった。暗い戦争のなかで、人生を部分部分にせよ明るく快く生きる方途を心得ているようなのだ。
悲惨で陰惨な出来事もふっと冗談のテーマとしてかわし、笑いとばす。自分の悲劇をも笑いの材料にしてしまう。そんな南ベトナムの人たちに私はいつしか強く魅せられていったのだった。
《豆事典》
(注1)ブンタオ 
サイゴン南東60キロにある南シナ海に突き出た小半島にあり、海水浴場で有名。メコンデルタ北西部のサイゴン川河口に位置し、フランスの統治時代はカプ・サンジャックと呼ばれた。サイゴン最寄りの海水浴・保養地として人気を集め、フランス人総督の別荘も作られた。現在も欧米などからの観光客が多い。沖合の海底油田の基地でもある。
(注2)近藤紘一(1940−1986年) 
東京都生まれ。昭和38年(1963年)早稲田大学仏文科を卒業後、産経新聞に入社。静岡支局から外信部勤務を経て、71年から75年までサイゴン特派員。サイゴン陥落を現地で取材する。78年から83年までバンコク支局長。サイゴン特派員時代に再婚したベトナム人女性のナウ夫人と連れ子ユンとの生活を描いた「サイゴンから来た妻と娘」で第10回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞(78年)。難民問題などの一連の解説や報道活動により80年、国際報道にめざましい活動を行った記者に授与されるボーン・上田賞を受賞した。また、84年には小説「仏陀を買う」で中央公論新人賞も受けた。ほかにサイゴン陥落を描いた「サイゴンのいちばん長い日」などの著書がある。胃がんのため86年1月、45歳で死去。 【20世紀特派員】古森義久 産経新聞

■サイゴン陥落(17)縁故主義と汚職
南ベトナムでは一九七三年(昭和四十八年)一月にパリ和平協定が成立してから、平和とも戦争ともつかない奇妙な状態が続いた。南ベトナム政府は「戦後」の経済開発八カ年計画を発表した。メコンデルタ沖の海底油田(注1)の存在が確実だとされたことがベトナム経済のミニブームを起こした。南ベトナム側はアメリカの援助が減る展望を踏まえて、日本に対し投資や援助の拡大を求めた。
日本政府は二年間で五千万ドルの経済援助を南ベトナムに提供することを決めた。民間でも観光開発ブームで、日本の旅行会社がサイゴン市内につぎつぎと店を開いた。日本人の観光客が増えた。「アオザイ(注2)娘とサイゴンの夜を−」といった日本語の宣伝が街に目につくようにさえなった。
みな錯誤のうえに咲くあだ花だった。だが南ベトナム政府が全土四十四省都と人口密集地域をすべて支配しているのだから、まるで根拠のない見通しではなかった。ただし北ベトナムの労働党(現共産党)政治局が和平協定成立から九カ月後の七三年十月の時点で、すでに南ベトナムの軍事制圧をひそかに決めていたことはもちろんサイゴン側ではだれも知らなかった。
▼賄賂体質  
私はサイゴン社会の上層にも触れるようになった。グエン・バン・チュー大統領の体制の内部をのぞく機会をも得た。フランス語の個人教授を受けた女性がたまたまチュー夫人の縁続きだったため、親切に私を大統領周辺の人物に紹介したり、一族のパーティーに招いてくれた。上智大学に留学した経験のある大統領のめいの結婚披露大パーティーに招待もされた。
サイゴン川につながれた大きな船の上でのパーティーには首相、主要閣僚、各軍司令官、国立銀行総裁、ベトナム航空会長といったチュー体制のオールスター・キャストが顔をそろえた。大統領のおいで情報相となっていたホアン・ドク・ニャ夫妻のさっそうたる姿が目立った。大統領側近にはニャのようにチューの縁続きが多かった。
アメリカ留学から帰ったばかりの若手が大統領の親類というだけで政府報道官とか住宅建設庁長官というポストについていた。独裁志向の体制は身内や腹心の重用が不可欠なのだろう。ネポティズム(縁故主義)は体制の団結強化の効用はあるかもしれないが、明らかに指導層の資質の低下と腐敗をも招いた。
行政の機能そのものに賄賂(わいろ)の支払いが組みこまれている腐敗慣行は貧困にも帰せられた。なにしろ政府職員や軍人の給料が安いのである。フランス植民地支配や中国の科挙の影響までもが南ベトナムの汚職の遠因だとする説明もあった。ちなみに私は九八年九月にベトナム社会主義共和国を訪れたが、現地で働く日本やアメリカのビジネスマンは賄賂がないと手続きが進まないベトナム側の体質をこぞって非難していた。だからこの地の汚職の原因説明は至難である。
▼少数派  
しかし当時の南ベトナムでも汚職は悪いことだという意識は厳存した。清廉な高官や将軍は絶大な尊敬を受けた。和平協定後のチュー政権で大蔵大臣となったチャウ・キム・ニャンもそんな少数派の一人だった。ニャンは私にも「腐敗した政権は長期存続できないから、大改革が不可欠です」ともらしていた。彼の質素な私生活をよく知るにつれ、真実を語っているのだと感じた。
ニャンは六〇年代末、悪名高いグエン・ゴク・ロアン将軍(注3)が国家警察長官だったころ、税関局長だった。空港で金塊の密輸入が摘発され、押収と懲罰の措置をすぐとると、国家警察から金塊と密輸犯の両方を放置することを要請してきた。断ると、札束を詰めたトランクが届けられた。それでも断ると、ロアン自身が目こぼしを頼んできた。国警長官自身が密輸組織につながっていたのだという。
ニャンは結局、圧力に負け、犯人の釈放だけには応じてしまった。その後すぐ税関局長の職を解かれ、ロアン一派が政権から遠ざかるまでは閑職に留めおかれたという。ニャンはこの種の話をぽつぽつと述べて、祖国の将来への不安をもらすのだった。
▼青年たち  
私が南ベトナムの社会になじむには、ある青年男女のグループと親しくなったことが役立った。サイゴンのフランス系の私立高校マリキュリー出身の同窓生が中核となった二十数人ほどの友人同士の集まりだった。ほぼ全員がサイゴンの大学を出て、政府職員、銀行員、医師、薬剤師、技師、通訳などという専門職についていた。学歴だけでは社会の上層だが、富や権力に恵まれた家庭の出は少ない点で一般社会から遊離もしていなかった。
このグループとは英語での意思疎通が容易だったことや、年齢も私と近かったことで、ずいぶんと親しくつきあう結果になった。彼らも私を真の仲間の一員にみなしてくれたように思えた。日曜日のサイゴン近郊の果樹園への果物摘み、ブンタオへの海水浴の遠出、仲間の誕生日とか結婚式の集まりなど、必ず招いてくれた。
彼らは欧米志向の知識や教養を身につけていたが、ベトナム人としての民族意識も強く、アメリカ依存、腐敗横行のチュー政権にも批判をちらつかせた。戦争の続く自国の不運を嘆きながらも、無力感からか積極的な政治論議は避けていた。ただし北ベトナムの規律社会に象徴される共産主義勢力の統治の下では自分たちは暮らし難いことははっきり認めていた。
ベトナム社会のさらに広い階層に接するには学生時代に身につけた柔道が驚くほど有益となった。和平協定後、南ベトナムでは柔道が盛んだと知って、サイゴン地区の町道場を見物にいくと、日本人ならできるだろうと勧められ、つい稽古(けいこ)をした。私は大学卒業までは一応、本格的な練習や試合を続けて、四段だった。だがごく平均的な選手だっただけで、練習もやめており、自信はなかった。それでもいざ二、三人の黒帯と乱取りをすると、相手はみなびっくりするほど水準が低かった。
そのとき、わりに楽に投げた相手が元南ベトナム選手権者だったとかで、こちらが恥ずかしくなるようなうわさが広がり、あちこちの柔道場からコーチとして招かれるようになった。大学から農業専門学校、軍医学校の柔道クラスから仏教のベトナム国寺派が管理する生徒数計二千人の柔道学校にまで何度も招請され、一生懸命に教え、練習した。東南アジア大会に出場する全南ベトナム柔道チームの特訓コーチまで頼まれた。
この柔道経験では外国特派員としては決して会えない多様なベトナムの若い男女に接した。チュー大統領のボディーガードにも柔道の生徒がいて、私が記者として公式の場で大統領に質問しようと接近すると、彼が「すみません」などといいながら、私を押し止めるような光景もあった。
《豆事典》
(注1)海底油田 
ベトナム南部沖の海底油田は1970年代にモービル社(米国)が開発に着手し、サイゴン陥落後はソ連が引き継ぎ、86年にバクホー油田で商業生産を開始した。2010年をめどに、インドネシアの全原油産出量を超える日量80万バレルを産出する予定で欧米諸国や日本が試掘を続けている。だが最近では、油田が中国、フィリピンなどと帰属問題で係争中のスプラトリー(中国名・南沙)諸島まで達する可能性があることや、埋蔵量が当初予想より少ない可能性が指摘され、当初に比べると開発意欲は落ちているとの指摘もある。
(注2)アオザイ 
ベトナム女性の民族衣装。アオは「着物」、ザイは「長い」の意味で、グエン王朝時代に清朝の官服を簡略化したものがアオザイと呼ばれて民間に広まり、女性用衣装となった。立ち襟やわきの切れ目などは中国風。細いそでが手首までを隠しており、クワンと呼ばれる白い絹ズボンを合わせるため正式にはクワンアオと呼ばれる。絹製が多い。
(注3)グエン・ゴク・ロアン(?−1998年) 
北部ベトナム出身ではあるが、1954年のジュネーブ協定時に南部に移住。空軍副司令官を経て65年に軍治安局長、66年からは国家警察長官を兼任した。中部ベトナムで多発した仏教徒や学生の反政府デモの鎮圧にあたったほか、68年2月のテト攻勢でベトコンのゲリラ数百人がサイゴン各所を襲撃した際、逮捕した青年ゲリラの頭部にけん銃を突きつけ、路上で射殺した写真は全世界に配信され、米国のえん戦感情を強める結果にもなった。その後、市街戦で重傷を負ったこともあり、同年6月に解任された。75年4月のサイゴン陥落とともに米国に亡命してバージニア州に居を定め、レストランを経営。78年に米移民帰化局が戦争犯罪者として国外追放にしようとしたが、カーター大統領が拒否した。98年7月にワシントン郊外の自宅で病死した。

■サイゴン陥落(18)女優キム・クン
ベトナム戦争の記録は勝者と敗者のどちらにより多くの光をあてるかで、描かれるドラマは明とも暗ともなると、このシリーズの冒頭で書いた。南ベトナムの女優キム・クンのたどった軌跡は、その明と暗のどちらにも分けがたい。彼女の歩んだ道こそサイゴン陥落という歴史的大事件の光と影の複雑な交錯のように思えるのだ。
▼壁際の白花  
私が初めてみたキム・クンはレセプションの人の輪からちょっと離れて、一人で立っていた。サイゴン陥落の二年前の一九七三年(昭和四十八年)春である。日本政府が「戦後の南ベトナム」に送った文化使節団をベトナム側のペンクラブが歓迎するレセプションがサイゴン市内で開かれたのだった。
使節団の盛田昭夫(注1)、三浦朱門(注2)という著名の士を迎えた会場で、壁際に清楚(せいそ)な白のアオザイの女性がいた。優雅な挙措だった。優しげな微笑に引きこまれるように英語であいさつをすると、「英語はわかりません」という言葉がきれいなフランス語で返ってきた。私のつたない言葉でいろいろ聞くと、彼女は自分の専門は演劇だと告げた。
その場に運よくフランス語のできる産経新聞特派員の近藤紘一が加わり、南ベトナムの演劇とか文芸、映画に話がはずんだ。横から現地に長い日本大使館員がそっと「その人は南ベトナムでも最も有名な女優ですよ」と教えてくれた。びっくりした。全体の印象がごく質素だったからだ。レセプションの後も夕暮れの街路を一人で歩いて帰ろうとするので、近藤記者とともに車で送ってあげた。
こんな契機でキム・クンと知りあった。ダイヤモンドという意味の名の彼女は南ベトナム伝来のキックと呼ばれる近代劇の名女優とされていた。メコンデルタのゴコン省出身で三世代にわたる演劇一家に生まれ、幼いころから舞台に立った。そのころは現代物でも時代物でも、喜劇でも悲劇でもこなし、映画やテレビにも出ていた。
キム・クンの最も得意なのは過酷な運命に耐え抜いた末に、よよと泣き伏しながらもなお立ち上がるような悲劇のヒロイン役だという。戦火の国の薄幸な女性たちに共感を呼ぶのだろう。そんなことを聞いて映画や演劇の宣伝に注意すると、なるほど、キム・クンの名と顔はいたるところにあった。テレビでも毎週の「キム・クン・アワー」が人気を集めていた。
だが舞台を離れた彼女は控えめで、独身の私生活も地味にみえた。私は南ベトナムの演劇や映画の話を聞き、記事にした。彼女も日本に関心を示し、食事に招いてくれた。私の片言のベトナム語とフランス語にも辛抱強く耳を傾け、サイゴン社会の伝統や慣習についても教えてくれた。近藤記者とベトナム人の夫人を交え、音楽を聴き、会食をすることもあった。
キム・クンはサイゴンで活躍する人物にしては珍しく英語をまったく話さなかった。アメリカがどうしても好きになれないといい、チュー政権の演劇統制の政策をやんわりとながら批判した。
「私は将来に希望が持てません。だからいつ死んでもよい、などと思ってしまうのです」  人気スターの彼女がこんな言葉をもらすのをひどく意外な感じで聞いたこともあった。だがその後、日常の仕事に追われ、しばらく会わないうちに、彼女が年下の海軍予備役中尉と結婚したという話を聞いた。そしてやがてサイゴン陥落となった。
▼“革命の士”  
陥落から一週間後の七五年五月七日、旧大統領官邸での革命側の勝利祝賀の集会でキム・クンにまた出会った。著名な映画スターや歌手がほぼすべて国外に脱出したのに彼女は残っていたのだ。濃紺のアオザイを着た彼女は野外の強い陽光に顔を少ししかめるようにしていたが、私をみると、にこやかな笑顔をみせた。彼女の頭上には「愛国芸術家連盟」という横断幕がはためいていた。
その後、キム・クンと夫のトゥックを交え、何回か会った。彼女は革命の新時代到来を歓迎する言葉を述べたが、本当にどう思っているのかは私にはわからなかった。だがその間、彼女は革命当局からは重用され、サイゴン地区の軍事管理委員会とか人民革命委員会の委員に選ばれていた。「キム・クンはもともと革命側の闘士で、実は人民軍の中佐なのだ」といううわさも広まった。
さらにその後、朝の街で彼女と偶然、会った。彼女はちょうどよかったといい、サイゴン市場脇の小さな食堂に私を招いた。  「夫が再教育のために連行されてしまったのです。どうしたらよいのか…」 
革命当局は旧南ベトナムの政府職員や軍人を山中の収容所に隔離し始めたのだった。もし彼女が人民軍の将校ならば、その立場で夫の優遇を頼めないのかと問うと、彼女はそんな話はまったく事実無根だと否定し、表情を暗くした。そしてサイゴン政権側で暮らしてきた自分を革命政権がなぜ丁重に扱うと思うか、と逆に質問してきた。革命をひどく恐れているようにもみえた。
しかし女優としてのキム・クンはさらに重用された。南ベトナム伝来の演劇類は共産主義の新時代にはあわないとして禁じられたが、キム・クンだけは劇団の主宰が認められ、キックの上演を許された。陥落から四カ月後の七五年八月、市内の大きな劇場でキックの初公演となった。出し物はキム・クンの十八番とされる「ドリアン(注3)の葉」だった。
メコンデルタの村の貧しい少女ベアがサイゴンに勉学に出る恋人との別れに緑の葉がついた果物のドリアンを贈る。悲恋のベアは以後の二十数年、数奇な運命にもてあそばれ、俗物の実業家となった元恋人に再会する。そしてドリアンの葉のみずみずしい緑にたくし、彼に真の人間性の徳を説く−。こんな筋書きの舞台劇である。
キム・クンが演じる貧しい女の一生に超満員の観客は息をのみ、笑い、泣いた。彼女のせりふはみな柔らかい南独特の発音だった。義理と人情のしがらみの物語も南部人の心情にぴったりなのだ。そもそも主題のドリアンも南では最高の美味とされるが、北の人は人間の腐肉のようだとして手もつけない。北の革命当局がこの公演を許したのも、自分たちの社会が崩壊されたと感じる南の人の失意への配慮だったのかもしれない。
▼問いかけ  
それから二十三年−。いまはホーチミン市と名を変えた旧サイゴンで私はこの九月、キム・クンと再会した。  長い歳月にもかかわらず彼女の外見は驚くほど変わっていなかった。キム・クンはいまも約七十人の劇団を主宰してはいるが、キックは人気が落ちてしまったと打ち明けた。夫のトゥックとは離婚し、彼との間にできた息子がカナダに留学しているという。その息子が幼児のころ誘拐されて殺されかけたという苦労話も語った。
しかし彼女はいまのベトナムは問題こそあれ、基本的にうまくいっていると強調した。その一方、私に微妙な問いかけをしてきた。  
「戦争が終わる直前に私はどう身を処したら最善なのかと、もしあなたにたずねたとしたら、なんと答えたと思いますか」  キム・クンがサイゴン陥落や、その前後での自分の人生の選択を本当はどう思っているのか、私にはこんどもわからなかった。
《豆事典》
(注1)盛田昭夫(1921年− ) 
愛知県の造り酒屋に生まれ、昭和19年(1944年)大阪帝大理学部を卒業。東京工大講師を経て、海軍航空技術廠光熱兵器部で東京通信工業(現ソニー)創業立者の井深大と知りあい、21年の同社創立に加わった。主として経営・販売・財務面に携わり、ソニー製品を世界に販売した。46年に社長、51年に会長就任。63年には日本企業として初のニューヨーク証券取引所に上場を果たした。達者な英語で外国メディアに登場することも多く、日本の代表的ビジネスマンのひとりとして海外でも知名度は高い。財界人としても国際的に活動し経団連会長候補として名前があげられたこともあるが、脳内出血で倒れ、平成6年(1994年)には一線を退いた。
(注2)三浦朱門(1926年− ) 
東京都生まれ。昭和23年(1948年)東大文学部卒。大学院入学とともに日大講師となるが、同人誌の作品が認められ、吉行淳之介や島尾敏雄らとともに「第三の新人」として文壇にさっそうとデビューした。28年に作家の曽野綾子と結婚。戦後日本社会と個人のあり方を描いた「箱庭」(昭和42年)で新潮社文学賞を受けた。他に「武蔵野インディアン」(昭和57年)、「夫婦は死ぬまで喧嘩(けんか)するがよし」(平成5年)など著書多数。60年から61年にかけては文化庁長官を務めた。
(注3)ドリアン 
熱帯果物の王様といわれるが、「ジャコウネコのにおいとテレピン油のにおいを混ぜた感じ」「腐敗した玉ねぎ臭」などと形容されるほど、強烈なにおいが特徴。マレー半島やボルネオ島が原産地で、野生では30メートルを超える高木に、堅くとがった突起に覆われた重さ数キロの人の頭大ほどの実がなる。割ると5つの部分に分かれており、それぞれ数個の栗の実大の種があって、その種のまわりの白い果肉を生で食べる。食べると体がほてる性質がある。

■サイゴン陥落(19)革命地区潜入
私は左手に白いハンカチを巻いた人物が現れるのをひたすら待った。南ベトナム中部のビンディン省の国道一号線わきの草むらだった。一九七四年(昭和四十九年)一月十六日、サイゴン陥落に先立つ十五カ月ほど前のことである。 ひとりぼっちで地面に腰を下ろし、不安にさいなまれながら、落ち着かない視線を周囲に配った。革命勢力側の密使が姿をみせ、革命側支配区内部へと連れていってくれるのを待ったのだ。
▼不安な時間  
七三年一月のパリ和平協定で南ベトナム領内には南ベトナム(ベトナム共和国)政府と臨時革命政府と第三勢力という三つの政治勢力が存在するという前提が紛争解決の方途として採択された。だが南ベトナム政府は四十四省都すべてや一般居住地区のほぼすべてを統治していたから、臨時革命政府の支配地域とは一体どこなのかという疑問が当然、生まれる。
革命地区を探訪する必要がある。そう考えた私は和平協定でタンソンニュット基地駐在を認められた革命政府軍事代表団にひそかに訪問許可を求めたのだった。何カ月もかかって同代表団次席のボー・ドン・ザン大佐からOKが出た。
大佐からビンディン省人民革命委員会議長にあてた私の顔写真つき紹介状をカバンの底に隠し、サイゴンから同省の省都クイニョン(注1)へ飛んだ。だが南ベトナム政府は国民に革命側との接触を法律で禁じていた。革命側が公然と姿をみせれば、もちろん南軍は攻撃する。和平協定後とはいえ戦闘は続いていたのだ。
そんな危険な状況のために、私はスパイ映画のような秘密の接触を詳細に指示されていた。クイニョンから北へ八十キロほど、郡都ボンソンに近い国道沿いのビンミン三差路という地点で一定の時間帯に白いハンカチを左手に巻いた人物と会い、その案内に従う、という指示だった。こちらの服装も細かく指定されていた。
国道は完全に南軍の支配下にあり、三差路の近くにも装甲車がおかれ、武装兵士が機銃を構えていた。人や車の往来は少ない。兵士の一人がやがて私のところにきて、こんなところでなにをしているのかと問う。友人にはぐれたので待っている、などとごまかした。
不安な時間が流れた。  「エイ、エイ」  もしもしという意味のささやくような声が聞こえた。野良仕事の帰りのような農婦が三人、カゴをかつぎ、歩いていく。うちの一人が人さし指を曲げて、ついてこいと指示した。だが白いハンカチがない。一瞬ためらったが、ついていった。国道から西への小道を数十メートル歩くと、農家があった。内部から目つきの鋭い中年女性が飛び出してきた。左手に白いハンカチがあった。
そこからさらに西へ数百メートルいくと集落があり、革命側の武装ゲリラ数人が待ち構えていた。こちらの手が痛くなるほど熱烈に握手してくる。実物の革命ゲリラをみるのは初めてとあって緊張した。彼らの先導で木立や水田を抜け、三時間以上も歩くと、二、三百軒の農家が点在する村に着いた。ホアイニョン郡ホアイハオ村だった。この村で六人ほどのビンディン省人民革命委員会の代表の出迎えを受けて、私の革命地区訪問が正式に始まった。
▼高い英語力  
私は結局、旧正月のテトをはさんで十日間を革命地区で過ごした。歩きに歩き、ときにはバイクや南軍から奪った米国製ジープに乗せられ、二郡六村を訪れた。国道から遠く離れた山あいの農村ばかりとはいえ、「もう一つの南ベトナム」があった。村々には「アメリカ帝国主義者への戦いの勝利祝賀」とか「パリ和平協定は米帝を追い出した大勝利」という標語の看板が掲げられていた。
私の取材のためにティンとテップという二人の英語の通訳がついた。ティンはハノイの外交学院で英語を学び、六八年からは南領内で活動する人民軍正規軍師団の将校だと自己紹介した。近くの山中にある師団司令部から私のために村へ下りてきたというが、彼の英語力はびっくりするほどの高い水準だった。
同行班の長のズーは抗仏時代からのベテラン闘士で北ベトナムで政治教育を受けたという。ホアイニョン郡の地方軍司令官のトンもフランス軍と戦ったという古参の闘士だった。郡の政治幹部のタオもルオンも十年以上の闘争歴だと語った。みなチェコ製のピストルを携帯していた。
革命地区は日夜を問わず、ピンとした緊張に包まれていた。いつ砲撃や爆撃があるかわからないために、どの家にも堅固な退避壕(ごう)があった。私も農家に宿泊中に南軍側の砲撃があり、その農家の家族とともに、壕に飛びこんだことが二回あった。
住民たちは生活を昔ながらの農業に依存しているようだった。郡、村、集落すべてが人民革命委員会に支配され、住民はその指示で動いていた。医療面での問題も多く、マラリア(注2)発病はごくふつうのようだった。通訳のテップもマラリアにかかって震え出し、同じ部屋で簡易ベッドを並べて寝る私はずいぶんと不安だった。 住民と話していて最も頻繁に耳にしたのは「チェット(死んだ)」という言葉だった。父が死んだ、夫が死んだ、息子が死んだ…。なにを語るにも死に触れなくては説明ができないというふうなのだ。それだけ多くの生命がこの地区での戦闘で失われたわけだった。
ビンディン省は第一次ベトナム戦争当時からベトミンの勢力が強い地域だったのである。そんな歴史のせいか、住民たちはスパルタ的な規律を厳しく保っていた。辛苦に耐えて、とにかく闘争を進めるという決意をみせるところは私がサイゴンで日ごろ接する市民たちとは対照的だった。
ただし闘争が北ベトナムと一体であることはだれも隠さなかった。政治幹部はみな一度はハノイで暮らしたというし、省内のどこかに強大な北ベトナム軍の正規師団がいて、革命地区を防衛していることも公然の秘密だった。通訳のティンは北の人民軍が南領内に入ると、階級章などをすべてとり、南の解放軍に変身するというメカニズムを説明してくれた。
▼傀儡を強調  
私はどの村でも公式にせよ、歓迎された。トン司令官はビンディン省内の革命地区を訪問した外国人新聞記者はこれまでフランスのミシェル・レイ、オーストラリアのウィルフレッド・バーチェット(注3)の二人だけで、私は三人目だと述べて、実情を詳細に報道してほしいと要望した。
郡レベルの歓迎の会合では政治幹部たちは用意した分厚い書類を読みながら、フランス植民地支配への戦いから米軍との戦闘にさかのぼり、ホー・チ・ミン思想に触れて、民族独立闘争の大義を必ず説いた。サイゴンの南ベトナム政府はアメリカの傀儡(かいらい)にすぎないと強調した。
こうした姿勢からこの闘争が南ベトナム側と協調しての和解などは絶対に認めず、南ベトナム政府という存在自体を完全に否定していることが明白だった。私はこの戦争の深いふちを改めてのぞく思いだった。
《豆事典》
(注1)クイニョン 
ベトナム南東部(旧南ベトナム中部)の海岸都市でビンディン省の省都。港湾のほか国土を縦貫する国道1号線沿いにあり、周辺への道路分岐点ともなっていることからベトナム戦争中は戦略的要衝でもあった。海岸には海水浴に適した浜辺があり、近くの山地には少数山岳民族が住む。1965年2月にはクイニョンなどの米軍宿舎がベトコンの攻撃を受け、米軍が報復のため北爆を本格的に開始するきっかけともなった。
(注2)マラリア 
東南アジア、アフリカ、南米など熱帯・亜熱帯の風土病。マラリア原虫を持つハマダラ蚊を媒介に感染する。原虫が赤血球内部で分裂・繁殖する周期にあわせ、約40度の発熱や悪寒と震えの発作が、数日おきに繰り返される。原因発見まで長い間、人類の死因として第1位を占め、日本でも瘧(おこり)と呼ばれて恐れられた。特効薬としてキニーネやクロロキンがあるが、副作用も多く、現在でも年間3億人が発病し150−300万人が死亡しているとされる。「熱帯熱マラリア」の場合、免疫のない日本人や欧米人は死亡率が25%にも達するという。
(注3)ウィルフレッド・バーチェット(1911−1983年) 
オーストラリア人ジャーナリスト。中学校中退後、肉体労働をしながら独学し、1936年に渡欧。41年からロンドン・デーリー・エクスプレスのアジア特派員として第2次大戦を取材した。日本の降伏時には連合国側の記者として広島に一番乗りし、「ノー・モア・ヒロシマズ」の言葉とともに被ばく地の惨状を伝えた。その後フリーランスとして主にモスクワに住み、朝鮮戦争や中国内戦、ベトナム戦争をもっぱら共産側の立場から取材。67年には「米国が北爆を停止すれば和平を話しあう」との北ベトナム側の最初の和平サインをスクープして注目された。一方でソ連のスパイともいわれ、オーストラリアに17年間も再入国を拒まれた。「17度線の北」「再び朝鮮で」など著書は30冊を超える。夫人の故郷ブルガリアで病死した。

■サイゴン陥落(20)運命の数奇
南ベトナム中部ビンディン省の革命地区を訪れた私は旧正月テト(注1)の元旦、グエン・デという医師との朝食の集いに招かれた。アンラオ川のゆったりした流れに近いホアイアン郡アンティン村だった。一九七四年(昭和四十九年)一月二十三日のことである。デもサイゴン陥落にいたるベトナム戦争に運命を数奇にもてあそばれた一人だった。 サイゴンを発って革命地区に潜入する前からデには会いたいと思っていた。革命側に身柄を拘束されているらしいことを知っていたからだった。  
▼とらわれの身  
私がサイゴンで親しかった青年男女のグループにニュンという女医がいた。魅力的な女性だったが、いつも控えめで、陰気でさえあった。仲間に聞いてみると、同じ医師の夫、デが七二年の北ベトナム軍の春季大攻勢で戦闘に巻きこまれ、行方不明なのだという。デは当時、ビンディン省の郡都ボンソンの公立病院に勤務していたが、ボンソンは北ベトナム軍に制圧され、彼は姿を消した。ボンソンはその後、南軍が奪回したが、デは帰ってこなかった。 私はビンディンへの旅が決まり、案内役との密会の場所がボンソンの近くとわかって、革命側にデの消息を聞くことをニュンに提案しようかどうか考えた。日ごろ親切なベトナムの友人仲間に役立てれば、うれしい。だが革命地区入りを事前に知らせてよいのかどうか。しばらく思案した末に結局、デの消息調べを提案することに決めてニュンを訪れ、計画を打ち明けた。 
サイゴン市場近くの両親の古い家に幼い子供二人と住んでいたニュンは私の申し出を聞くと一瞬、考えこんでから、せきを切ったように語りはじめた。  「ぜひとも夫に会ってください。実は夫は行方不明ではなく、共産側に捕らわれているのです。ボンソンの病院の元の患者たちが共産側の支配区にも出入りしていて、こっそり教えてくれたのです」
夫が生きているのを知っていながら、親しい友人にまで行方不明だと述べていたのだ。だれも完全には信用できないからだろう。ニュンは言葉をついだ。  「もしも夫に会えたら、家族はみな元気だと伝えてください。そしてできることなら、釈放のために共産側に身代金を払う用意もある、と彼に告げてください。話がまとまりそうなら、私がすぐ現地にいきます」
▼偽りの表情  
だから私はビンディンで革命側代表に会うとすぐ、取材のための一連の要請にデ医師との会見を含めた。私の案内班の責任者ズーは調べてみると答え、その翌日、「デ医師は確かにビンディン省の解放区で医療にあたっています」と告げた。もとはサイゴン側だったが、民族解放の思想に共鳴し、自分から残って働くことを求めたのだという。
だがデとの会見は省内でも遠い地域にいるとか、連絡がとれないという理由で、なかなか実現しなかった。私が不満をかなり露骨にすると、革命地区入りして一週間後の旧暦の大晦日(おおみそか)、やっとアンティン村で対面できた。石油ランプだけの農家の暗い一室で会ったデは妙に疲れた感じの神経質そうな人物だった。三十三歳という年齢よりふけてみえた。案内班の政治幹部数人のほかにビンディン省病院の院長だというたくましい男につきそわれていた。
一見してデがこの地に自分の意思で留まっているのではないことは明白だった。顔には日焼けの跡がなく、おびえている。私は通訳のテップを通して、家族が元気でいることを伝え、デの体調について聞いた。マラリアに何度もかかり調子はよくないと彼は答えた。私はサイゴンに帰りたいかとか、この闘争をどう思うかなどという質問は一切、しないことにした。あたりさわりのない話をして終わりにした。
翌朝のテトの元旦、ズーから「お祝いの朝食をデ医師がもてなし役で差しあげたいといっています」と告げられた。農家の庭には明るい陽光の下、大きなテーブルがおかれ、革命地区にしては手をかけた料理が並んでいた。前夜と同じ顔ぶれで座ったが、デだけは暗い表情だった。それでも彼はきちんと立って、私を改めて歓迎し、テトをともに祝えるのはよろこばしいとあいさつした。
食事後の短時間、デと二人だけで庭を歩いた。彼は「これを妻に渡してください」と小さく折った手紙を手渡してきた。革命側の許しも得ているようだった。私は彼に家族への伝言をテープレコーダーに吹きこむことを勧めた。デは自分が元気で、家族をいつも懐かしく思っているという意味の言葉をおずおずと述べた。私は身代金の話は持ち出さないことに決めた。もし革命側にわかった場合の危険が大きすぎるからだった。デは間もなく革命側の人たちと徒歩で村のはずれの林の中へと消えていった。
サイゴンに帰るとすぐ、ニュンに夫の近況を報告し、手紙とテープを渡した。ニュンは手紙を開け、最初の数行を読んだだけで、むせるように泣いた。  
▼二重のユダ  
ところが意外なことにデはこの九カ月後の七四年十月、サイゴンにもどってきたのである。台風が中部を襲った夜、増水したアンラオ川の支流に飛びこみ、一晩中、泳いで南ベトナム政府側の地域へと脱出したのだという。私はニュンから電話でこの報を受けて、デに再会した。
「あのときはあなたが困る質問をしないので助かりました」  デは革命地区での様子とは別人のように明るく語った。彼はやはりとらわれの身だった。山中の施設で無理に革命側の治療をさせられた。私と会うに先立っては、応答の要領を指示され、練習までさせられた。解放の大義に共鳴して残ったという虚偽の答えを用意していたのだが、私がそのことを聞かなかったので本当に助かったというのだ。ニュンもそんな話を体全体を弾ませるようにして聞いていた。
デ一家は文句なしに幸福にみえた。彼はまたサイゴンで医療の場にもどった。ところが三カ月ほどしてニュンからデが職場で共産側で働いていた人間としてあれこれ不信の目でみられるという話を聞いた。デ自身も革命側の規律や献身とサイゴン側の自由や放漫とのギャップについて真剣に悩むようにもなったのだという。デは二重のユダ(注2)のような立場におかれたのだった。
そのほんの三カ月後、サイゴンに陥落の危機が迫った。革命側を裏切ったことになるデは革命側の勝利を恐れ、一家を連れて国外へと逃げた。二度目の脱出だった。私がデやニュンにまた再会したのはサイゴン陥落から七年が過ぎた八二年、ピッツバーグ(注3)でだった。やっと連絡がとれ、招きに応じ、彼らの自宅を訪れたのだった。二人ともすでにアメリカの医師として働いていた。三人になった子供たちもアメリカにすっかりなじんでいるようだった。
「私にはこの道しかなく、悔いはまったくありません。でも故国を捨てて悔いないというのは故国を捨てること自体より悲しいことかもしれませんね」  すっかり肉づきのよくなってデはそんなことを淡々と語るのだった。
《豆事典》
(注1)テト(旧正月) 
正月元旦の意味で、中国、朝鮮とならび旧暦で正月を祝うベトナムで最大の年中行事。親類一同が家を飾りつけ、会合して祖先を祭る。仏教寺院やカトリック教会への初もうでが行われるほか、全土で多くの催しが行われる。年明けの瞬間が最も重要とされ、どらや爆竹で新年の霊を迎える。また新年の第1日や第1週は特に大事とされ、福を呼ぶために最初の訪問客が裕福で重要な人物となるよう事前に手配する習わしなどもみられる。ベトナムでは行事や祝日の多くが旧暦で祝われるが、メーデー、独立記念日は太陽暦で定められている。
(注2)ユダ(?−30年ごろ) 
聖書に登場するイエス・キリストの12使徒の1人、ユダ・イスカリオテ。イエスを追及するユダヤの神職に銀貨30枚を代償にイエスの居所を教え、裏切ったとされる。
(注3)ピッツバーグ(ペンシルベニア州) 
二つの川が合流しオハイオ川となる地点にあり、独立以前の1758年に英植民地軍が仏軍を撃退し入植したのが町の始まり。英国の政治家の大ピットから名づけられた。独立後はオハイオ川を下る入植者の物資補給地となったが、五大湖のスペリオル湖西岸および周辺で鉄鉱石や石炭が産出したことから1792年に高炉が築かれ、さらに1834年にはペンシルベニア運河や鉄道が完成して市場と結ばれ、19世紀中に全米一の鉄鋼業の町となった。その一方、労働争議やスモッグ公害でも知られた。

■サイゴン陥落(21)悲劇の外相
南ベトナムの外務大臣を三度、務めたチャン・バン・ドはときどきツルを思わせるような人物だった。痩(そう)身を滑らかに動かす立居、やわらかそうな白髪、色白で面長の容ぼうなどが品格をも感じさせた。
私はサイゴンでは陥落の直前までドを訪れ、南ベトナムの政治や外交についての話をよく聞いた。大統領官邸に近いホンタプトゥー通りにある彼のそう大きくないアパートで、くすんだ石のテーブルをはさみ、長い時間、話しあった。控えめな夫人が熱いジャスミン茶を必ず供してくれた。彼の情勢分析に耳を傾けると、いつもベトナム戦争の基本構図が頭にしみこんでくる気がしたものだった。
▼軍医総監に  
ドはベトナム北部に生まれ、一九三一年にはパリ大学医学部を卒業したというから、やはりフランス植民地下のエリートといえよう。その後はフランスとベトナムの両方で医師として働き、五一年にはバオダイ帝を国家元首とした南ベトナムの軍医総監に任命された。
ドは五四年にはジュネーブ国際会議の南ベトナム政府の首席代表となる。同時に外相となり、翌年のゴ・ジン・ジェム政権の成立までそのポストにあった。ジェム政権がクーデターで倒された後も六五年のファン・フイ・クアト内閣で副首相となり、その後、六七年までの間に短期ながら外相をさらに二回、務めた。
こうしたドの経歴はまさにベトナムの複雑な歴史そのものだった。私が知りあったころは彼はすでに七十歳ぐらいだったが、会見の申しこみにはいつも快く応じてくれた。会えばその時点でのベトナム情勢を歴史と国際関係の両方を背景に、格調高い英語でわかりやすく解説してくれた。
ドは一度、日本軍の仏領インドシナ進駐に触れて、「ベトナムにきた日本軍将兵は自己への規律が厳しく、フランス軍をあっという間に制圧し、畏敬(いけい)の念を強く感じました」とちらりともらしたことがあった。私は東南アジアと日本軍といえば悪いことしか習ってこなかったため、意外だった。ドはそんな経験のせいか、日本には明らかに好感を持っていた。
彼のジュネーブ会議考は含蓄が深かった。会議では南ベトナム政府の首席代表として不名誉な譲歩は決してしなかったという。フランス植民地軍とホー・チ・ミンが率いるベトミン軍とが戦った第一次ベトナム戦争を収拾することを目的としたこの会議には、フランスのビドー、イギリスのイーデン、ソ連のモロトフ、アメリカのダレス(注1)といった外相クラスがそれぞれ首席として加わった。中国は首相の周恩来が、北ベトナムは外相ファン・バン・ドンがそれぞれ首席だった。
会議では交戦当事者が休戦協定に調印し、ベトナムの南北の暫定分割と二年後の総選挙をうたう最終宣言が発表された。ただし法的拘束力のあるのは休戦協定だけで、最終宣言には各国代表のサインもなかった。しかもアメリカと南ベトナムはその宣言に反対する声明を発表していた。
だからドは南北共存が長期に続くべきなのに北が南を武力で制圧しようとし始めたことが今日の戦火の原因なのだ、と強調した。彼は七三年のパリ和平協定を南ベトナムやアメリカにとっての事実上の降伏だとも評していた。
「ジュネーブ協定の方がずっとましでした。南北ベトナムの分割でベトミンは北へ引き揚げ、国民は自由に国内の好きな地域に移住できた。だがパリ協定では同盟軍は引き揚げ、北ベトナムからきた敵軍はすべて残るのです。米軍が五十万の兵力でも撃滅できなかった相手に私たちが独力でどうして勝てるでしょうか。世界最強国で最高の頭脳とされるキッシンジャー氏は三年を交渉に費やし、降伏を得ただけのようです」
▼独立の大義  
ドはこの戦争の本質部分についても啓発してくれた。ベトナム戦争は民族独立闘争と共産主義革命が一体となった闘争だった。フランスの植民地支配(注2)の悪は自明であり、そこからの脱却を図る民族独立には大義があろう。だが共産主義が自明の善であり、大義であるかは疑問だろう。ではベトナムではなぜ植民地主義を倒すのに共産主義革命しか方法がなかったのか。
ドは抗仏闘争の歴史を解説した。一八八〇年代に始まったフランスの植民地支配下で今世紀に入り、ベトナム民族の独立志向が高まって以来、系統だった抗仏闘争は共産主義と無縁のベトナム国民党、大越党、ベトナム光復会という組織によって当初は推進された。これら民族主義の組織はホー・チ・ミンがコミンテルンとの固いきずなを基盤にベトナム民族独立闘争の舞台に登場してからも、彼の掲げるマルクス・レーニン主義を無視どころか敵視したのだというのである。
国民党や大越党での闘争歴を持ち、なおサイゴンに現存するチャン・バン・チュエン下院議員、ダン・バン・スン上院議員、グエン・ゴク・フイ教授らの系譜を教えてくれたのも、ドだった。私はこれら反共、あるいは非共の民族主義者たちに直接、何度も会って、闘争の歴史を聞くことになった。
日本軍が降伏してすぐの四六年にフランスに対抗して結成された抗戦連合政府に国民党の幹部として加わり、ホー・チ・ミンらと協力したことのあるチュエンは、連合政府のなかで共産党が他の民族主義勢力をありとあらゆる手段を使って排除していった歴史を語った。
共産党はまず共通の敵フランスに反抗するすべての勢力を集め、連合戦線の組織を拡大し、強化したうえで、こんどは組織内部で共産主義に同調しない勢力を仮借なく切っていったというのだ。
スンやフイも共産主義への信奉を誓うことなしに民族独立を唱えた活動家たちが共産党により暗殺や欺瞞(ぎまん)を含む巧みな方法で除去されていった実例をいろいろ話してくれた。民族主義者でもあっても同時に共産主義者でなければ真の民族主義者たりえないというベトナムの闘争独特の鋼鉄の規範が一九五〇年代前半までには揺るぎなく打ち固められていったというのだ。そして共産思想に同調しない政治勢力は終極的にはすべて切って捨てるベトナム共産主義者たちの冷酷な本質を自分たちこそ骨身にしみて知っているのだ、と説くのだった。
▼背信に抗議  
ドも七五年四月末、危機の迫ったサイゴンから国外へ避難した。最後までアメリカの背信に悲痛な声で抗議していた。彼との交流はサイゴン陥落後も十五年ほど続いた。医師を開業する息子の住むパリに居を定めたドを私は二年に一度ほどのわりで訪れた。ビクトルユゴー通りに近い由緒ありげな建物のアパートに入ると、サイゴン時代と同様にジャスミン茶が出て、きちんとネクタイをしたドはベトナム戦争を現在の出来事のように語るのだった。
九〇年の秋、珍しく彼から「また話をしにきてください」という手紙をもらい、再訪した。ベトナムは当時、カンボジアでの戦争の泥沼から脱し切れず、国内は貧困の極にあった。ドはいつもの活力がなく、「ベトナムという家はまだ業火に焼かれているのです」と述べたのが妙に印象に残った。彼の訃報(ふほう)を知らされたのはその一カ月後だった。
《豆事典》
(注1)ジョン・フォスター・ダレス(1888−1959年) 
祖父もおじも米国務長官の名門に生まれ、ニューヨークで国際法専門の弁護士となる。パリ和平会議(19年)や国連憲章起草のサンフランシスコ会議で米政府の法律顧問となり、49年に共和党の上院議員。対日講和条約の全権大使をつとめ、53年から59年までアイゼンハワー大統領の下で国務長官を務めた。強烈な反共姿勢を貫き、北大西洋条約機構(NATO)に加えて中東・東アジアでも東南アジア条約機構(SEATO、54年)などの安保体制創設に尽力した。CIA元長官のアレン・ウェルシュ・ダレスは実弟。
(注2)フランスの植民地支配 
フランスは17世紀からポルトガル、スペインとともにカトリック宣教師をベトナムに派遣、18世紀末にはルイ16世が阮福映(グエン・フク・アイン)の全土統一に軍事支援を約束し、宣教師が援軍を送っていた。19世紀初頭の統一後、阮朝がキリスト教を禁じて欧州人宣教師と信徒を処刑したため、英国の中国進出に対抗してベトナム進出を狙っていたフランスはこれを口実に1847年にダナン港を攻撃。1857年にはナポレオン3世がスペイン人宣教師処刑を理由にサイゴンを占領し、メコンデルタ3省の割譲を受けた。フランスはさらに1884年の清仏戦争で宗主国の清を破って宗主権を奪い、1887年に保護領としていたカンボジアと合わせ、仏領インドシナ連邦を完成した。第2次大戦前までの植民地経営では産業をゴム・米・石炭など輸出向け天然資源に限定し、劣悪な生活環境を放置したため、本国議会でも批判の声が上がった。抗仏ゲリラは1860年代から活動したが、日露戦争(1904年)で日本が勝利したことで民族運動が刺激され、1920年代後半の労農運動の発展に続いて1930年にホー・チ・ミンがベトナム共産党を結成した。日本軍進駐の翌年の41年にベトミンが結成され、日本降伏後には独立を宣言。植民地回復を狙うフランス軍を54年のディエンビエンフー陥落で降伏させるまで第1次ベトナム戦争が続いた。

■サイゴン陥落(22) 終幕の始まり
一九七五年(昭和五十年)三月十日、南ベトナム中部高原ダルラク省の省都バンメトート(注1)が北ベトナム軍の猛攻を受けて陥落した。この日からわずか五十日ほどでサイゴンを首都とするベトナム共和国(南ベトナム)は地崩れのように崩壊し、ついえ去った。そしてサイゴン陥落とともに三十年にも及ぶベトナム戦争が終幕を迎えた。
▼50日で抹殺  
南ベトナムはアメリカの援助に依存し、領土の一部の統治を失っていたとはいえ、二千万近くの国民と百万の軍隊を抱え、全世界の九十以上の国から承認された一つの国家だった。その国家が北ベトナムの軍事攻撃をあびて、なんと五十日という短期間であっけなく抹殺されてしまった。現代世界史にも珍しい異様な出来事だったといえよう。
私はベトナム戦争最終のこの激烈な展開を主としてサイゴンから追い、報道した。それまでの三年間の戦争報道の常識や定石では夢にも想像できないことが毎日のように起きた。信じがたい大激震に息をのみ、その意味をなんとか考えようと一瞬、静止すると、またすぐにそれ以上に大きな揺れが襲ってくる。走り、あえぎ、書き、また走り、恐れ、怒り、悲しみ、という日々となった。
南ベトナムにとってこの年は元旦から不吉な幕開けとなった。サイゴン北約百三十キロのフォクロン省の省都フォクビンが北ベトナム軍第七師団に占拠されたのだ。フォクビンは山地の小さな町だが、七三年一月にパリ和平協定が成立して以来、省都が軍事攻撃で占拠されるという事態は一度も起きてはいなかった。和平協定の基本を否定するような重大な違反だった。
だが北ベトナム側は攻撃をさらに広げ、フォクロン省全体を制圧してしまった。大規模な攻撃の理由としては南ベトナム軍側の停戦違反攻撃をあげていた。  
南ベトナムのグエン・バン・チュー大統領は奇妙にも同省の防衛に力を注がなかった。カンボジア国境沿いのこの地域は人口も資源も極端に少ないことや、北軍が同地域でホーチミン・ルート(注2)を整備して、兵力を大幅増強し南軍の反撃を不利にしていることがあったが、アメリカに共産側の侵略を明示して、援助の削減を防ぐという政治計算が真の理由だと伝えられた。
だがアメリカはなんの反応もみせなかった。政府は北ベトナムの和平協定違反を言葉で非難するだけで、なんの行動もとらなかった。議会は援助の削減をさらに続けた。「アメリカは共産側の重大な協定違反を座視しない」と軍事支援までを誓ったリチャード・ニクソン大統領はウォーターゲート事件ですでに辞任していた。アメリカの世論もベトナムへの関与を一日も早く終わらせたいと願う声が圧倒的だったのだ。
アメリカのこの態度は北ベトナム首脳にとって歴史的な意味を持つこととなった。人民軍参謀総長のバン・チエン・ズン将軍の手記によると、北側はすでにこの時点で南ベトナム軍がアメリカの援助削減で戦闘力を大幅に弱めたとみて、南領内での大規模な軍事作戦再開の基本を決めていた。だがその場合にアメリカがどう出るかがカギだった。米軍がたとえ空爆だけでも南軍を軍事支援するとなると、北軍は勝利はつかめないと判断された。米軍との戦闘はなんとしても避けるという基本戦略だった。そのためにアメリカの対応をみる瀬踏みがフォクビン攻略だったのである。
北ベトナムはフォクロン省制圧後、米軍はなにがあっても絶対にもどってこないと判断し、初めて歴史的な決定を下す。労働党(現共産党)政治局は一月八日、「七五年春からほぼ二年の予定で南ベトナムへの総攻撃を断行し、七六年中に南全土を解放する」という大作戦を決定したのだった。その幕開けが三月の中部高原バンメトート攻撃だったのである。
▼奇襲を断行  
ズン将軍はこの大作戦のために二月にハノイをひそかに離れ、南北境界線のベンハイ川を越えて、チョンソン山脈東部に新設された戦略道路を南下していた。そして中部の森のなかの前線司令部でバンメトートへの奇襲作戦を指揮したのだった。奇襲は中部高原の要衝プレイク(注3)周辺に大部隊集結を偽装する陽動作戦と一体になっていた。
バンメトート攻略自体には人民軍三個師団が投入された。守備の南軍は主力の第二十三師団がプレイクに転進したばかりで、一個連隊強の兵力しか残っていなかった。こうした兵力、戦力の圧倒的優位を確保したところで初めて攻撃に移るというのが人民軍の戦略基本となっていたのだ。
この時点で南ベトナム軍は中部全体の第二軍管区で二個師団の兵力を有していた。だが北ベトナム軍はすでに中部に五個師団を布陣していた。この大部隊は当然、次の攻撃の照準をプレイクにしぼるとみられた。プレイクは南軍の第二軍管区司令部のある重要拠点だった。南軍は劣勢を立て直し、プレイク死守に努めるとだれもが思った。
そんな状況下の三月十六日朝、サイゴンにいた私は国営ベトナム通信のグエン・ザ・トイ記者から奇怪な情報を聞いた。長年の情報提供者のトイは息を切らしてやってきて私に告げた。
「プレイクでなにかが起きています。プレイクとの通信が突然、すべて切れてしまったのです。共産軍の攻撃は始まっていないので、ふしぎです」  思えばこれが私にとっては南ベトナム軍総敗退へとつながる歴史的激変の第一報だった。チュー大統領は突然、プレイクを放棄し、中部高原全地域からの全軍撤退を命じたのだった。アメリカの援助の削減で兵器や弾薬の補充にも支障が出てきた南軍が北軍の大部隊を相手にもはや中部高原では戦えないと判断して、戦略的撤退をするという意図だった。防衛線を後退させ、人口の多い海岸部と首都サイゴン地域に部隊を集中して、南ベトナムの中枢だけを死守するという狙いである。
だがこの戦略が完全に失敗した。中部高原から撤退する南軍部隊は雪崩を打って避難する住民たちの大洪水に埋めつくされ、戦力を失った。南軍の中部高原放棄は北軍のズン将軍にとっても青天のへきれきだった。中部高原全域の制圧は翌七六年はじめを目標としていたほどなのである。だが撤退する南軍へのフルスピードでの追撃を全軍にすぐ命令したのだった。
▼総力を投入  
ハノイ首脳は一気に南ベトナム全土で大攻勢に出て、サイゴンを占領するという作戦に切り替え、国家の総力を南に投入する態勢をとっていく。人民軍第二軍団の大部隊が新たに北緯一七度線を堂々と超えて、クアンチやユヘへと突入した。北ベトナムはやがて予備役までも動員し、行政や生産の現場の人員を三割も削減し、すべて南での戦争へと注ぎこんだ。人民軍の二十個師団もが南ベトナム領内を南へ、南へと進撃することになった。
その結果、南ベトナム側は古都ユエを失い、中部の軍事都市ダナンを攻略され、いよいよサイゴン周辺地域へと追いこまれていった。この過程では何百万という難民が出て、無数の悲劇や惨劇が繰り広げられた。(編集特別委員)
《豆事典》
(注1)バンメトート 
中部高原地方で最大の都市。ダラト高地南端の標高540メートルの位置にある。茶、コーヒー、ゴムのプランテーションがある。  
(注2)ホーチミン・ルート(トレイル=小道) 
南ベトナム領内での政府軍や米軍との戦闘のために、北ベトナムが兵器・物資・人員の輸送に建設し、利用した秘密ルート。北の革命勢力は、フランス植民地時代から第2次ベトナム戦争まで自力で山岳地帯に道路を切り開いて使った。北ベトナム側は、その存在自体を否定していたが、米国は北ベトナムのホー・チ・ミン大統領の名前をとって、こう呼んだ。輸送路はハノイから非武装地帯北側でアンナン山脈の密林内のラオス・カンボジア領内に入り、メコンデルタに至る。随所に物資集積所やわき道があり、南ベトナム領内へつながっていた。第2次ベトナム戦争で使われはじめた59年ごろは、せいぜい小道程度だったが、60年代から輸送量が大幅に増加したことで道幅の拡大・補強が繰り返された。60年代後半には大型トラックも通過できるようになり、戦争末期には一部が舗装された。南ベトナム内で活動する数十万の北軍兵士の主要な物資補給ルートであり続けたことから、米軍は足音センサーなどの投下で通過状況の把握に神経をとがらせた。米軍は戦争の全期間を通して空爆を加えるなど輸送路の分断を図ったものの、一部の破壊にとどまった。サイゴン陥落時の北軍部隊も主要な補給路として活用していた。
(注3)プレイク 
中部高原のコンツム高原にあり、道路が交差する戦略的要衝。平均標高800メートル。2000メートル級の山が連なるアンナン山脈南部に位置する。住民は少数山岳民族が多く、茶やコーヒー、陸稲を産する。プレイクの米軍航空基地が1965年に共産側から初の本格的攻撃を受けたことから、ジョンソン大統領が数日後に海兵隊のダナン上陸を命令して米軍の全面的介入のきっかけとなった。1972年の春季大攻勢では共産側の攻撃を受けたものの、米軍の空爆支援を受けた南ベトナム軍が保持した。

■サイゴン陥落(23)勝者と敗者
サイゴン陥落はベトナム革命勢力にとっては輝ける歴史的な大勝利だった。一九七五年(昭和五十年)五月十五日に開かれた勝利祝賀式典では旧大統領官邸の正門前の大演壇に著名な闘士たちがずらりと並んだ。
▼民族独立の士  
中心は北ベトナム大統領トン・ドク・タン(注1)である。ホー・チ・ミンと三十年以上も手をとりあって戦ってきたタンはすでに八十七歳だが、ずんぐりとした体にはたくましさがあった。そのすぐ背後に労働党(現共産党)政治局員のレ・ドク・トが立つ。長身のトはパリ和平協定の交渉での花形だった。この二人が北ベトナム代表団を率いていた。
さんさんたる陽光の下でタン大統領ら生涯を革命にささげてきた闘士たちが究極の勝利に顔をほころばせる光景は圧巻だった。フランス植民地支配を打倒し、その延長とみなしたアメリカと戦って撤退させ、そのアメリカの傀儡(かいらい)とみなす南ベトナム政府をついに粉砕したのだ。
だが真の「主役」は北の代表団の横に並ぶ南ベトナム臨時革命政府の首脳たちのはずだった。革命政府諮問評議会の議長で南ベトナム民族解放戦線議長のグエン・フー・トが最前列に立っていた。トはサイゴンの弁護士だったが、ゴ・ジン・ジェム政権に弾圧され、六一年に密林へと消えた。
少し離れて革命政府首相のフィン・タン・ファトの姿があった。ファトはサイゴンの建築士で日本大使公邸を設計した実績もあったが、やはりジェム政権の迫害で首都を離れて、五〇年代末に地下に潜行した。
この二人こそ南独自の民族主義者の代表であり、特定の政党やイデオロギーには属さない民族独立の士とされてきた。この二人が代表する南革命政府と解放戦線こそが南領内でアメリカや南ベトナム政府に戦いを挑む唯一の武装勢力とされ、北ベトナムは後方支援をするだけで、南には一兵たりとも部隊を送っていないと宣言されてきた。
ところがトかファトかが占めるべき南ベトナム代表団最上位には驚くべき人物が立っていた。北の労働党政治局員のファム・フン(注2)だった。北ベトナムの副首相まで務めたフンは労働党南ベトナム支部書記長という肩書で紹介された。南代表団の第二位はこれまた労働党中央委員のグエン・バン・リン(注3)だった。労働党南支部副書記長とされている。
革命勢力のこれまでの建前に従えば、北ベトナム政権の要人が南の闘争の中枢に位置することなどあってはならない。まして北の共産政党の支部が実は南に存在するなど、あるはずがないのだ。だが当の革命勢力首脳たちが勝利をつかんだとたん、それまでの建前をぽいと捨てたのだった。
長年の闘争戦術としてのフィクションをそのフィクションを描いてきた当事者が「ああ、これはみんなウソだったよ」というかのごとく、消し去ったのである。革命勢力の実態をかなり理解していた私も当の革命側がこれほど早く、これほどあっさりと虚構を打ち砕いてみせたことには唖然(あぜん)とした。
勝利祝賀式典の後のサイゴンでは南ベトナムの新しい勝利者かつ統治者となったはずの南の革命政府も南の民族解放戦線も、実権を持った機関としてはまったく登場せず、幻のままに消えていった。闘争の勝者が勝者になったとたんに消えたわけである。革命行政は労働党が組織した軍事管理委員会が実施し、末端の要員も北からきた政治幹部が中心となっていた。
▼日本での錯誤  
南ベトナム独自の非共産民族主義勢力というのもジェム政権からテト攻勢のころまでは一部には確実に存在しただろう。だが闘争の主体や主導は最初から最後まで北の共産主義政党だったのである。
日本ではこの虚構を現実として提示するのが多数派だった。「労働党南ベトナム支部」もアメリカのベトナム研究家ダグラス・パイク(注4)らにより英語名の頭文字をとったCOSVNとして戦争の早い時期から詳細に報告されていたが、日本の識者の多くはCOSVNというだけで反共プロパガンダのデマだと断じていた。
日本での錯誤をさらに指摘するならば、「米軍さえ撤退すれば民族和解の平和がすぐ実現する」とか「チュー大統領さえ辞任すれば戦争は交渉で解決する」という声が強かったことである。これも幻想だった。北の革命勢力は一貫して共産主義に基づく武力での南ベトナム制圧を目指し、その過程では共産主義を信奉しない勢力はあくまで敵として排するという基本を決定していたのだ。この点はむしろ「共産勢力との交渉解決などありえない」と主張し続けたチュー自身の言葉が正しかったわけである。
▼報道操作  
ベトナム戦争は二つの政治システムの激突でもあった。戦争の長い歳月、南ベトナムでは外国人記者の報道には事前検閲はなかったが、戦争が終わり革命勢力の支配が確立したとたんに厳しい事前検閲が実行された。南ベトナムは外国報道陣が味方の軍隊の不利となる情報をどんどん流すのを放置したが、北ベトナムは自陣に友好的な外国記者だけを選別して報道させる一方、国営メディアを使って南領に潜伏するバン・チエン・ズン参謀総長がハノイにいるという虚報を流すような「報道操作」は日常だった。
南ベトナムに援助を与えるアメリカは世論が政策を決める民主主義国家だからこそその援助を大削減したが、北ベトナムに援助を与えるソ連と中国は共産主義の一党支配の下、揺るぐことなしに援助を続けたのである。 ズン参謀総長が大勝利の手記の最後で、かぐわしき花束をホー・チ・ミン主席とマルクス・レーニン主義と国際共産主義運動とにささげるとうたったように、ベトナムの戦争は民族独立闘争であると同時に共産主義革命だった。日本の識者の多くは前者しかみなかった。革命勢力対フランス・アメリカだけではなく、同じベトナム人同士の間で共産主義を信奉する勢力と、信奉しない勢力とがぶつかりあい、前者が後者を粉砕した闘争でもあったのだ。
共産主義を信奉しない側は信奉する側に軍事攻撃を受けて生存を脅かされ、アメリカに依存し、自己の防衛を米軍に頼るという道を選んだ。その外国依存が悪だとされた。では同じアメリカに国の防衛を第二次大戦後、一貫してゆだねてきた日本はなんなのか。
私は陥落から二十三年が過ぎたサイゴンを再訪し、郊外のビエンホアにある二つの戦死者墓地に足を運んだ。革命側の墓地はきれいに掃除され、石碑は磨かれ、ふんだんな花や線香が勝者の霊を丁重に弔っていた。 同じ地域の国道を隔てた丘のふもとにはかつての南ベトナム軍の将兵の墓地があった。もっともいまは公式には墓地ではなく、雑草がやたらと伸びた草地となっている。荒涼とした無人の草地に立ち、一望すると、雑草の陰に汚れきった墓碑が無数に並んでいた。その情景は敗者たちの霊が幽鬼になってさまようのかと一瞬、感じさせるほど荒廃していた。
だがふと足元をみると、白茶けた墓石のわきに小さな赤い切り花が一輪、人の目を避けるように雑草に半分おおわれながら、ひっそりとささげられていた。  
《豆辞典》
(注1)トン・ドク・タン(1888−1980年) 
1910年代から共産主義運動に身を投じ、25年にフランスの中国共産勢力への干渉に抗議して仏海軍でストライキを扇動、29年から45年までベトナム・メコンデルタ沖のコンソン島の監獄に入れられた。出獄後、47年に北ベトナムの内相、55年に祖国戦線議長、60年には副大統領に就任した。69年のホー・チ・ミン死去に伴い北ベトナム大統領。サイゴン陥落後の76年、ベトナム社会主義共和国の初代大統領となった。
(注2)ファム・フン(1912−1988年) 
フランス植民地時代の1930年、インドシナ共産党(現ベトナム共産党)の創設に参加、31年に仏警察に逮捕され死刑判決を受けるが、終身刑に減刑され45年までコンソン島で服役した。釈放後はベトミン(ベトナム独立同盟)政権に加わり、第1次ベトナム戦争中は南ベトナムで活動。56年にベトナム労働党(76年にベトナム共産党と改称)の政治局員、58年に副首相。第2次ベトナム戦争では67年から党南部委員会の責任者として75年のサイゴン陥落まで南ベトナム内の党・軍を指揮した。76年に副首相、87年に首相に就任したが在任9カ月で死去した。
(注3)グエン・バン・リン(1915−1998年) 
十代で反仏活動に加わり、30年に逮捕されコンソン島に送られた。36年に特赦、インドシナ共産党に入党したが41年に再逮捕、45年まで投獄された。出獄後にサイゴンの秘密の党書記となり、60年にはベトナム労働党の中央委員に就任。第2次ベトナム戦争中は南ベトナムでの宣伝工作を担当、サイゴン陥落後の76年に党政治局員兼書記。82年に解任されたが、ホーチミン市党書記として経済改革を強力に推進して85年に党政治局員に復帰、翌年には党書記長に昇進した。91年に高齢のため引退。
(注4)ダグラス・パイク(1924− ) 
米国学界でも有数のベトナム共産主義勢力の研究家。1958年に国務省入。サイゴン勤務や本省政策企画局勤務を通じてベトナム問題に取り組む。82年からカリフォルニア大学のインドシナ研究所長。96年からはテキサス工科大学教授兼ベトナム研究センター所長。著書に「ベトコン=南ベトナム民族解放戦線の組織技術」「ユエの虐殺」「ベトナム共産主義の歴史」「ベトナム人民軍」など 。

産經新聞連載。古森義久『サイゴン陥落』(【20世紀特派員】1998年10月26日から11月27日まで掲載)

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